す。ピカリと眉間傷光らして、静かに言葉を返しました。
「主水之介、もし切腹せぬと申さば?」
「知れたことじゃ。今宵にもお上よりお差し紙が参るは必定《ひつじょう》、お手討、禄は没収、家名は断絶で御座るぞ」
「智恵者に似合わぬことを申しますのう。もしもお紋の方、父治右衛門と腹を併《あわ》せて、知りつつ企らんだ不義ならば何と召さる。かような膳立てになろうとは承知のうえでこの主水之介、わざとお借り申した膝枕じゃ。どうあっても切腹せぬと申さば何と召さる!」
「さようかせぬか……」
突然です。静かに見えた豊後守の目の底に冷たい光りがさッと走ったかと見えるや、何か第二段の用意が出来ているとみえて、そのまますうと玄関口へ消えました。
刹那。異様な気勢《けはい》です。静まり返っていたその玄関のそとで、不意にざわざわと只ならぬざわめきがあがりました。
一二
ざわ、ざわ、ざわと、異様な音は、玄関口から座敷の中へ、次第に高まって近づきました。
只の音ではない。
まさしくそれは殺気を帯びた人の足音なのです。
人数もまた少ない数ではない。
たしかに八九名近い足音なのです。
しかし主水之介は自若としたままでした。ぴかり、ぴかりと眉間傷を光らして、静かなること林のごとくに打ち笑みながら待ちうけているところへ、案の定、七人、八人、九人、十人近い人の顔が現れました。
羽織、袴、申し合せたような黒いろずくめの長刀を握りしめて、鯉口《こいぐち》こそ切ってはいなかったが、その目には、その顔のうちには、歴然たる殺気がほの見えました。
しかも悉《ことごと》く年が若い。
察するところ、大目付溝口豊後守が飼い馴らしている腕ききの家臣ばかりらしいのです。
その十人が右に五人、左に五人、声のない人のように気味わるく押し黙りながら片膝立て、ずらりと主水之介の両わきへ並んだところへ、当の溝口豊後守がけわしく目を光らしながら進みよって立ちはだかると、突然、冷たくきめつけるように促しました。
「立ちませい!」
「立てとは?」
「何と言い張ろうとも、不倫の罪はもはや逃がれがたい。今より登城して将軍家御じきじきのお裁きを仰ぐのじゃ。豊後、大目付の職権以って申し付くる。早々に立ちませい!」
「ほほ、なるほど、急に空模様が変りましたのう」
冷たい笑いが、さッと主水之介のおもてをよぎり通りました。
今のさき、脇差をつきつけて、割腹自裁を迫ったばかりなのです。死なぬと言ったら、俄かに将軍家お直裁《じきさい》に戦法を替えて来たのです。対手は智恵豊後と評判の智恵者なのだ。登城お直裁を仰ぐとは元より口実、裏には恐るべき智恵箱の用意があるに違いない。第一、自決を迫ったことからしてが、正邪黒白をうやむやにして、闇から闇へ葬り去ろうとした策だったに相違ないのです。今もなおやはり豊後の胸の奥底深くには、恐るべきその魂胆が動いているに相違ないのです。
さればこそ、十名もの放し鳥をずらりと身辺へ配置して、隙あらばと狙っているに違いないのでした。
「名うての智恵者も老いましたのう。京弥!」
それならばそのようにこちらにも策があるのです。主水之介は打ち笑みながらふりかえると、襖のあわいから血走った目をのぞかせて、いざとなったら躍り出そうと身構えていた京弥へ静かに命じました。
「月代《さかやき》じゃ。用意せい」
「ではあの、御登城なさるのでござりまするか!」
「そうじゃ。早乙女主水之介、死にとうないからのう、上様、おじきじきのお裁きとは願うてもないことじゃ。早う盥《たらい》の用意せい」
「でも、対手は御愛妾の縁につながる治右衛門、泣く児と地頭には勝たれぬとの喩《たと》えもござります。いかほど御潔白でござりましょうとも、白を黒と言いくるめられて、お身のあかし立ちませぬ節は何と遊ばすお覚悟でござります」
「潔白なるもの、潔白に通らぬ世の中ならば、こちらであの世へ逃げ出すだけのことよ。上様お待ちかねじゃ。早うせい」
悠然と坐り直して、その首を京弥の前へさしのべました。
しかし寸毫《すんごう》の油断もない。襲って来たら開いて一|閃《せん》、抜く手も見せじと大刀膝わきに引きよせておいて、じろりと十人の目の動きを窺いました。
京弥もまた月代を剃《あた》りながら油断がないのです。
「おのびでござりまするな」
「そちと比べてどうじゃ」
「手前の何とでござります」
「鼻毛とよ」
「御笑談ばっかり、おいたを仰せ遊ばしますると傷がつきまするぞ」
ジャイ、ジャイと剃《あた》りながらも、京弥の目はたえず十人の身辺へそそがれました。
ひと剃《そ》り、ふた剃りと、青月代に変るにつれて、江戸に名代の眉間傷も次第にくっきりと浮き上がりました。
したたるその傷!
やがて月代は青ざおと冴《さ》え返って、三日ノ月型にくっきり浮き上がった傷がふるいつきたいようです。
「いちだんとお見事でござりまするな。京弥、惚れ惚れといたしました」
「では、惚れるか」
「またそんな御笑談ばっかり。お門違いでござります」
「ぬかしたな。こいつめ、つねるぞ。菊! 菊! 菊路はおらぬか。京弥め、憎い奴じゃ、兄に惚れいと言うたら御門違いじゃと申したぞ。罰じゃ。手伝うて早う着物を着せい」
眼中、人なきごとき振舞いなのです。
腹立たしげに豊後守が睨みつけていたが、どうしようもない。無役ながら千二百石、かりそめにも直参旗本の列につながる者が、登城、上様御前へ罷り出ようというに当って、月代を浄めるのは当り前のこと、せき立てたくとも文句の言いようがないとみえて、立ったり坐ったり、じれじれとしながら待ちうけているのを、主水之介がまた悠然と構えているのです。
「馬子にも衣裳という奴じゃ。あの妓《こ》、この妓があれば見せたいのう。駕籠じゃ。支度せい」
「お供は、京弥が――」
「いいや。いらぬ。その代りちと変った供をつれて参ろう。土蔵へ行けばある筈じゃ。馬の胸前《むなまえ》持って参って、駕籠につけい」
「胸前?」
「馬の前飾りじゃ。菊、存じておろう。鎧櫃《よろいびつ》と一緒に置いてある筈じゃ。大切《だいじ》な品ゆえ粗相あってはならぬぞ」
意外な命を与えました。
胸前《むなまえ》とは戦場往来、軍馬の胸に飾る前飾りです。品も不思議なら、不思議なその品を、いぶかしいことには馬ならぬ駕籠につけいと言うのでした。しかもそれを供にするというのです。
怪しみながら躊《ため》らっているのを、
「持って参らば分る筈じゃ。早うせい」
促して、ふたりに土蔵から運ばせました。
見事な桐の箱です。
表には墨の香も匂やかな筆の跡がある。
「拝領。胸前。早乙女家」
重々しいそういう文字でした。
只の品ではない。八万騎旗本が本来の面目使命は、一朝有事の際に、上将軍家のお旗本を守り固めるのがその本務です。井伊、本多、酒井、榊原の四天王は別格として、神君以来その八万騎中に、お影組というのが百騎ある。お影組とは即ち、将軍家お身代りとなるべき影武者なのです。兵家戦場の往来は、降るときもある、照る時もある、定めがたい空のように、勝ってみるまでは敗けて逃げる場合も覚悟しておかなければならないのです。お影組は即ちその時の用にあらかじめ備えた影武者なのでした。鎧、兜、陣羽織、着付の揃いは元よりのこと、馬もお揃い、馬具もお揃い、葵の御定紋もまた同じくお揃い、敗軍お旗本総崩れの場合があったら、いずれがいずれと定めがたい同じいで立ちのその百騎の中へ将軍家がまぎれ入って、取敢えず安全なところへ落ち伸びるための、お身代り役なのです。
眉間《みけん》の傷に名代を誇る主水之介の家門家格は、実に又江戸徳川名代を誇るそのお影組百騎の中の一騎なのでした。
さればこそ、蓋を払うと同時に現れた胸前は、紫|縒糸《よりいと》、総絹飾り房の目ざましき一領でした。
紋がある。八百万石御威勢、葵《あおい》の御定紋が、きらめきながらその房の中から浮き上がって見えるのです。
はッと、斬り伏せられたように豊後守以下の顔が、青たたみへひれ伏しました。
天下、この御定紋にかかっては、草木の風に靡《なび》く比ではない。薄紙のようになって豊後守たちが平伏している間を、うやうやしく京弥に捧げ持たせながら主水之介は、心地よげに打ち笑み打ち笑み庭先の乗物へ近づくと、自ら手を添えてその駕籠前にふうわりと飾りつけました。
不審は解けたのです。
対手は機略縦横、評判の切れ者なのでした。途中が危ない。機を見て闇から闇へ葬ろうとの企らみがあるとすれば、必ずともに道中いずれかに油断の出来ぬ伏兵の用意もしてあるに相違ないのです。
槍という手もある。
弓という手もある。
それからまた種ガ島。
こればかりは防ぎようがない。わざわざ駕籠先に馬の胸前を飾りつけさせたのは、実にその飛び道具の襲撃を避けるためでした。まことや金城鉄壁、天下も慴《ひれ》伏す葵の御定紋が、その切れ端たりとも駕籠の先にかかったならば、もう只の駕籠ではないのです。上将軍家のお召し駕籠も同然なのです。
これを狙って、プスリと一発見舞ったとしたら、溝口豊後、切腹どころの騒ぎではない。一|門《もん》震撼《しんかん》、九族は根絶やし。――果然、道中何かの計画があったとみえて、見る見るうちに豊後守の顔が青ざめました。
「アハハハ……。御定紋なるかな。御紋なるかなじゃ。馬鹿の顔が見たいのう。豊後どの、御供御苦労に存ずる。では、参ろうぞ。駕籠行けい」
いいこころもちでした。
無言の御威光古今に聞える紫房の御定紋が、供先お陸尺の手にせる灯りの流れの中をふさふさとゆれて、駕籠は静かに歩み初めました。
一三
割下水からお城への道は、両国橋を渡って大伝馬町をのぼり、四丁め、三丁め、二丁めと本町をいって、常盤橋《ときわばし》御門から下馬止めへかかるのが順序でした。
道は暗い。
狙うなら恰度頃合い……。
その両国橋へさしかかったとき、察しの通り、やはり刺客《しかく》が伏せてあったのです。橋袂《はしたもと》のお制札場の横から、ちらりと黒い影が動いたかとみるまに、銃《つつ》さきらしい短い棒がじりッとのぞきました。
しかし駕籠には、無双鉄壁|弾《たま》よけの御紋どころがある。
只の通りものではない。八百万石御威光が通るのです。うしろに間を置いて引き随っていた豊後守の乗物の中から、慌ててさッと手が出ると、打ちうろたえながら影を制しました。
同時に銃さきらしい短い捧が、怪しむように引っ込みました。
「わッははは。御定紋なるかな、御紋なるかなじゃ、馬鹿の顔が見たいのう。豊後どの、御供御警固御苦労に存ずる。駕籠行かっしゃい」
爆発するような主水之介の声に、溝口豊後守も、取り巻いてひたひたと随っている十人の影も一様に歯ぎしりしたらしかったが、物を言うべき物が駕籠にかかっていたのでは手の出しようがないのです。
駕籠は宵の口の大伝馬町へかかって、四丁め、三丁め、二丁めと本町を常盤橋御門めざしてのぼりました。
その角。
右は辻番所だが、左は炭部屋、矢来《やらい》廻の竹囲《たけがこ》いがあって、中は刺客の忍ぶには屈強な場所です。両国で仕損じたら、ここでという計画だったらしく、ちらりとまた二ツ、その竹囲いの中から黒い影がのぞきました。
やはり短い銃《つつ》です。
しかし、のぞくと一緒にうしろの駕籠から、豊後のうろたえた手がまたさッと出て、慌てふためきながら制しました。
「わッははは。御定紋なるかな、御紋なるかなじゃ。馬鹿の顔が見たいのう。豊後どの、御念の入ったる御警固御苦労に存ずる。駕籠行かっしゃい」
崩れるような爆笑を打ちのせて、主水之介の乗物はゆさゆさと常盤橋御門へさしかかりました。
ここを通ればもう御城内。下馬止めまでずっと安全でした。
だが、それにしても気にかかるのは、豊後のこの計らいです。闇から闇へ片付けて、事の黒白を永遠に秘密の中に葬ろうとしたこの計らいが、豊後自身の方策から出ているか、それとも腰本治右が手を廻し
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