て、いらだたしげに消えた将軍家のあとから、ちょこちょこと姿を消しました。
 主水之介の潔白はついに通ったのです。
 豊後のおもては真ッ青でした。
 治右の手が廻っているといないとに拘わらず、大目付の役向きあるものが目違いした責《せめ》は免がれないのです。
 憎い奴めがッ、行けい、と御諚は只それだけだったが、取りようによっては黒白の見えぬ奴じゃ、切腹せい、という御上意にも取れないことはない。ましてや豊後も家門は同じ旗本、智恵者の評判の身を顧みたら、おのれの不明が恥ずかしくもなったに違いないのです。
 声もなくうなだれて、黙々と打ち沈んだままでした。
 引き替えて主水之介のほがらかさ。
「お介添《かいぞえ》、いろいろと御苦労でござった。そなたも同じ旗本、とかく旗本は大たわけ者に限りますのう。骨が硬うて困るとの仰せじゃ。飴《あめ》でも煎《せん》じて飲みましょうぞい。――お坊主! 早乙女主水之介罷りかえる。御案内下されい」
 サッ、サッと、袴の衣ずれが夜の大廊下にひびいて爽やかでした。

       一四

 表はもう四ツ近かった。
 暗い。
 大江戸は、目路《めじ》の限り、黒い布をひろげたような濃い闇です。
「供! 主水之介じゃ。供の者はおらぬか」
「あッ。おかえり遊ばしませ。よく、御無事でござりましたなあ」
「眉間の傷はのう。お城へ参っても有難い守り札じゃ。上様《うえさま》はいつもながらの御名君、先ず先ず腹も切らずに済んだというものじゃ。ゆっくりゆけい」
「お胸前は?」
「まだ馬鹿者が迷うて出ぬとも限らぬ。そのままつけて行けい」
 下乗橋からゆったり乗って、さしかかったのが常盤橋御門、ぬけると道は愈々暗い。
 お濠を越えて吹き渡る夜風がふわり、ふわりと柳の糸をそよがせながら、なぜともなしに鬼気《きき》身に迫るようでした。
 濠について街のかなたへ曲ろうとしたとき、不意です。
 殺気だ。
 窺測《きそく》の殺気だ。
 只の殺気ではない。
 刺客の窺い狙う殺気です。
 ひた、ひた、ひたと足首ころして忍び寄って来たその殺気が、ぴいんと主水之介の胸を刺しました。
 刹那です。
「あッ。殿様、狼藉者《ろうぜきもの》でござりまするぞッ!」
 声より早い。
 供の陸尺《ろくしゃく》たちが叫んだまえに、主水之介の身体はさッともうおどり出して仁王立ち、ぴたりと駕籠に身をよせながら、見すかすと、槍、槍、槍、四方、八方、槍ばかりです。
 三本、四本。
 六本、八本。
 いずれも短槍《たんそう》でした。
 もも立ち取って、すはだしの黒頭巾、しかも侮《あなど》りがたい構えなのです。
 無言のままぴたりとその八本が八方から穂先をつけて、じりじりと主水之介の身辺へにじり迫りました。

       一五

 何者?――
 一瞬主水之介の目が、稲妻のように光りました。
 御定紋なるかな、御定紋なるかな、と、これある限りたとえいかなる狼藉者といえども、刄向う術《すべ》はあるまいと思われたのに、そのお胸前が眼に入らぬのか、それとも知りつつ不敵な闇討かけたか、もし知ってなお恐れもなく刄向う者ありとしたら、容易ならぬ刺客に違いないのです。
「うろたえ者めがッ。この御定紋、目に入らぬかッ。うかつな真似致すと取りかえしつかぬぞッ」
 だが、不敵です。火のような主水之介の一|喝《かつ》も耳に入らぬのか、駕籠先につけたお胸前の葵の御紋は、陸尺たちが取り落して燃え上がっている提灯の火にあかあかと照し出されているというのに、刺客の影はビクともしないのです。ばかりか、無言のままじりッ、じりッと、包囲の環をちぢめて来る。
 八方にかこまれたままでは策はない。――今はこれ迄、と機をうかがって、パッと駕籠をはね飛ばすと、主水之介は、開いたその隙をものの見事な一足飛び――が、瞬間、崩れたとみえた短槍の包囲陣は、間もおかず半月形に立ち直って、無言のまま、またもじりじりと、主水之介へつめよせて来ました。
 影はやはり八ツ。しかもまことに整然そのものと言いたいみごとな構え、態勢です。
 只者ではない!
 腰本治右衛門の一味か――、当然起る疑問です。が、それにしては態勢がみごとすぎる。
 なら、将軍家の御機嫌を損《そこな》った溝口豊後が主水之介の口を永久に封じて、首尾つくろい直そうと放った刺客か――。
 主水之介の眼は不審にきらめきました。鋭く闇に動くその眼に、ふと、更に三つの影が映りました。槍襖の向うから、一つの影に二つの影が守るように寄り添って、じっと形勢を窺っているのです。
「………?」
 探るように主水之介の眼は、短槍の列を越えて、向うの三つの影へ喰い入りました。――その真中の影が、殺気をはらんだこの対峙《たいじ》を前にして、これはまた何としたことか、鷹揚《おうよう》そのものといいたいふところ手で、ぬうッと立っているのを見定めた瞬間、何思ったか、主水之介の面ににんまりわいたものは不敵な微笑でした。同時に太い声が放たれました。
「アハ……。おもしろい。お相手仕ろうぞ…」
 何ごとか期するところあるに違いない。左手《ゆんで》を丹田に右手《めて》を上向きにつきあげた揚心流水月当身《ようしんりゅうすいげつあてみ》の構え!
 ――素手《すで》で行こうというのです。しかも、ぐっと相手をにらんだその目の底には、明るい微笑が漂うたままなのです。
「これでまいる! 素手は素手ながら三河ながらの直参旗本、早乙女主水之介が両の拳《こぶし》、真槍《しんそう》白刄《しらは》よりちと手強《てごわ》いぞ。心してまいられい…」
「………」
「臆するには及ばぬ……遠慮も御無用!………額の三カ月傷こわかろうが、とっては食わぬ。腕一杯、踏んで来られたらどうじゃ」
 広言にくしとはやったか、右の一槍が、夜目にもしるくスルリと光って、
「えいッ」
 裂帛《れつばく》の気合もろともに突っかかったがヒラリ、半身《はんみ》に開いた主水之介の横へ流れて、その穂先は、ぐっと主水之介の小脇にかかえこまれてしまいました。
 のばした槍はうかつにはなせない。はなした一瞬、槍ははねかえって、おそろしい石突きの当身が見舞うのは知れたこと、引きもならず、進みもならず、必死と槍の一方にすがってもたついているのを、
「小|癪《しゃく》ッ」
 左から一槍が救いに走ってのびたが、また、いけない。寸前かるく体をひねった主水之介の右の小脇に、その穂先までがかいこまれてしまったのです。
「いかが! 敵を即座の楯とする、早乙女主水之介、無手勝流の奥義。お気に召しましたか」
「………」
「そのまま! そのまま! 突いてかかれば二つの槍につかまったお仲間が田楽ざしじゃ。次には同じく早乙女流、追い立て追い落しの秘芸御覧に入れる。――まいるぞ!」
 十字に組んだ二本の槍を、ぐいと両脇でかかえなおしたかとみるや、槍先の二人もろ共、わが身もろ共、じりりッと、残る六本の槍襖へ押し迫りました。仲間を楯に来られては、もはや返るより他はないのです。
「賢い! 賢い! はなれず後退《あとさが》りが兵法《へいほう》の妙じゃ! ほら! 一尺! ほら! 二尺! 一人でもはなれたら、この石突きがお見舞い申すぞ! ほら! ほら! 突いてかかればお仲間が田楽ざし! ほら! ほら!」
 六本の槍襖がじりじりと背後の指揮者とみえる影のところまで退って、一緒になった九つの影がじりりッとお濠の方へ――。
「ほら! ほら! あとすこしでお濠でござるぞ。お濠の水雑炊《みずぞうすい》おたしなみなさるも御一興。鮒《ふな》、鯉、どしょう、お好みならばいもり、すっぽんもおりましょうぞ。――ほらッ。ほらッ」
 あぶない。お濠の角石まであとがつまって、爪先立ってよろめく一番うしろから、今にも人|雪崩《なだ》れ打ってお濠へ落ちこむ、――と見えた途端でした。――不意に退屈男の背後から、どすぐろい叫びがあがりました。
「おひるみめさるな! そちらの方々! 押し返しめされい。加勢じゃ! 加勢じゃ! われらがお加勢つかまつるぞ! 挟み打ちにいたそう! 押し返しめされいッ」

       一六

 ハッとふりかえると、いつの間に迫ったか、いる! いる! かれこれ二十人ばかり、あまり風体もよろしくないごろつき付らしいのが、これが頭と見える白覆面を先頭に、ズラズラと白刄をならべているのです。
「やっておしまいなされ! この通り大勢、加勢がいるのじゃ! どなたたちか知らぬが、われ等も主水之介には恨みがあるのじゃ。どうでも今宵の中に呼吸《いき》の根をとめねばならぬそやつじゃ。われ等も必死に助勢つかまつるぞ! ――早う、早う! かかれッ。かかれッ。お前達もかかれッ」
 けしかける白覆面の声にサッと黒い人山が動いた。刹那です! かかえていた槍の一本を、ぐいと突いて、ぐいと引いてわが手に奪った退屈男、斜めに体をとばして、側面へぬけるや、きっと構えて大喝一声――。
「推参者めッ。主水之介と存じながら、この三カ月傷に鼠泣きさせたいかッ」
 その神速! その凛烈の気合! まこと大江戸名代旗本退屈男の威風が燃えるばかりです。黒い人山がぎょッと立ちすくんだ。――途端でした。闇の向うから、バタバタという足音が、はげしいいきづかいとともに近づいたと思うと、
「ま、間にあったか!」
 まぎれもない下総の十五郎でした。
 つづいて京弥――。
 つづいて菊路――。
「兄上!」
「殿ッ」
「ご、御前! ご、ご無事でごぜえやしたか! よかった! よかった! よよッ。そっちにもいやがるな。そ、そのお濠端の方は知らねえが、そ、そこにいるその白覆面は――」
「腰本治右衛門であろう」
 白覆面がピクリと動きました。
「お見通し! そうなんだ。じ、じつあ、京弥さまから、御前が不意の御呼び出しで御登城なすったお知らせいただいたんで、どうせこりゃ腰本の狒狒侍《ひひざむらい》の小細工、この上どんなたくらみしやがるかと屋敷の前へ張って容子をさぐっていたら、お城の小者が顔色かえて飛びつけて来ると、屋敷の中が急にガタつき出し、狒狒爺め覆面なんぞつけそこにいるガラクタどもをつれてお城の方へ急ぐんだ。あとをつけながら話をぬすみ聞いたら、どうやらお城じゃ御前の言い分が通り、狒狒爺のお蔵に火がついたんでこいつらアやぶれかぶれ、この上は今夜の中に御前を闇から闇へ消してしまってあとはお紋狐の口細工で将軍さまをいいくるめ直そうって悪だくみだ、こいつあ大変、腕はなまくらでもこの人数だ。御前だってお怪我の一つぐらいはなさるかも知んねえ、すこしも早くお屋敷へとすっとんでいったら、有がてえ! 途中で心配して出迎いに来られた菊路さまと京弥さまにバッタリ、三人火の玉になってかけつけて来たんだ。――さあ、狒狒侍ッ」
 おぞましや面皮《めんぴ》はがれて白覆面の腰本治右衛門、ピクリとまた後へさがりました。
「チビ狒狒どもも前へ出ろい! 下総の十五郎がかけつけたからにゃ、もう御前様にゃ、指一本ささせるもんじゃねえぞ。九十九里の荒浜でゴマンと鯨《くじら》を退治たこの腕で片ッ端から成仏さしてやらあ! 冥途急ぎのしてえ奴からかかって来い!」
「ひかえい! 十五郎!」
 はやり立った十五郎を、主水之介、キッと押えました。
「仔細があるゆえ、そちは後ろにひかえろ! ――京弥! 菊路!」
「はッ」
 よりそって進み出た二人へ、
「そちたちには腕だめしゆるすぞ。よき機会《おり》ぞ。日頃仕込んだ揚心流当身の術、心ゆくまで楽しむ用意せい」
「はッ」
 りりしくもういういしくも、勇んで二人が身構えると、主水之介、お濠端の方へはまったく警戒をといたように、ぐるりと真正面から腰本一味へ向き直りました。烱々《けいけい》たる眼光が、白覆面を射通すように見すくめました。
「腰本治右衛門……この目をみい!」
「………」
「今のこの男の申し分、何ときいたぞ!」
「………」
「お小納戸頭取《こなんどとうどり》の重職すらいただく身が、漁師|渡世《とせい》の者よりこれほどまでにののしられて、上の御政道相立つと思うか! よこしまの恋に心がくらみ、御恩
前へ 次へ
全9ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
佐々木 味津三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング