言うまでもないこと、一言半句の失言があっても、御気色《みけしき》は愈々|険悪《けんあく》、恐るべき御上意の下るのは知れ切ったことでした。
しかし主水之介は、森々沈着、神色また自若、しいんと声を含んで氷のごとく冷たく平伏したままでした。
その頭上へ、立ちはだかったままの将軍家の尖《と》げ尖げしい声がふたたび落ちかかりました。
「憎い! 憎い! 憎いと申すも憎い奴じゃ! 不埓者めがッ。顔あげい!」
「………」
「なぜあげぬ! 顔あげてみい!」
「………」
「あげぬな! 不届者めがッ。それにて直参旗本の職分立つと思うか! たわけ者めがッ。治右よりその方の不埓、逐一きいたぞ。お紋を何と心得ておる! 言うも憎い奴じゃ! 顔あげてみい!」
しかし主水之介は、ことさらに押し黙って、しんしんと静かに平伏したままでした。賢明な策です。立ちはだかったままで、お褥も取らないほどに御癇癖が募っている今、何を申上げたとてお耳に這入る筈はないのです。ないと知って、とやかく弁明したら、弁明したことがなお御癇癖に障るは必定、障ったら切腹、改易《かいえき》、お手討ち、上意討ち、黒白正邪をつけないうちに、只お憎しみ
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