たのは言う迄もなく退屈男です。
「痛え! うぬか! 河童の真似をしやがったのはうぬかッ」
 叫ぼうとしてもがいた口へ、手もなく平手の蓋を当てがっておきながら、軽々と小脇へ抱え込んで、悠々と門番詰所へ上がってゆくと、ぱらりと覆面をはねのけて、これを見よと言わぬばかりに番士の目の前へさしつけたものは、吉原仲之町で道場荒しの赤谷伝九郎とその一党をひと睨みに疾走させた、あの、三日月の傷痕鮮やかな、蒼白秀爽の顔ばせでした。
「よッ、御貴殿は!」
「みな迄言わないでもいい。この傷痕で誰と分らば、素直に致さぬと諸羽流正眼崩しが物を言うぞ。当下屋敷に勤番中と聞いた霧島京弥殿が行方知れずになった由承わったゆえ、取調べに参ったのじゃ、知れる限りの事をありていに申せ」
「はっ、申します……、申します。その代りこのねじあげている手をおほどき下さりませ」
「これしきの事がそんなにも痛いか」
「骨迄が折れそうにござります……」
「はてさて大名と言う者は酔狂なお道楽があるものじゃな。御門番と言えば番士の中でも手だれ者を配置いたすべきが定《じょう》なのに、そのそちですらこの柔弱さは何としたことじゃ。ウフフ、十二万石を喰う米の虫よ喃《のう》。ほら、ではこの通り自由に致してつかわしたゆえ、なにもかもありていに申せ。事の起きたのはいつ頃じゃ」
「かれこれ四ツ頃でござりました、宵のうち急ぎの用がござりまして、出先からお帰りなされましたところへ、どこからか京弥どのに慌ただしいお使いのお文が参ったらしゅうござりました。それゆえ、取り急いですぐさまお出かけなさりますると、その折も手前が御門を預かっていたのでござりまするが、出かけるとすぐのように、じきあそこの門を出た往来先で、不意になにやら格闘をでも始めたような物騒がしい叫び声が上りましたゆえ、不審に存じまして見調べに参りましたら、七八人の黒い影が早駕籠らしいものを一挺取り囲みまして、逃げるように立去ったそのあとに、ほら――ごらん下さりませ。この脇差とこんな手紙が落ちていたのでござります。他人の親書を犯してはならぬと存じましたゆえ、中味は改めずにござりまするが、手紙の方の上書には京弥どのの宛名があり、これなる脇差がまた平生京弥どののお腰にしていらっしゃる品でござりますゆえ、それこれを思い合せまして、もしや何か身辺に変事でもが湧いたのではあるまいかと存じ、日頃京弥どののお立廻りになられる個所を手前の記憶している限り、いちいち人を遣わして念のために問い合せましたのでござりますが、どこにもお出廻りなさった形跡がござりませぬゆえ、どうした事かと同役共々に心痛している次第にござります」
「ほほう、それゆえわしの留守宅にも、問い合せのお使いが参ったのじゃな。では、念のためにそれなる往来へおちていたとか言う二品を一見致そうぞ。みせい」
 手に取りあげて見調べていましたが、脇差はとにかくとして、不審を打たれたものは手紙の裏に小さく書かれてあった、菊――と言う女文字です。
「はてな――?」
 愛妹の菊路ではないかと思われましたので、ばらりと中味を押しひらいて見ると、取急いだらしい短い文言が次のごとくに書かれてありました。

「――大事|出来《しゅったい》、この状御覧次第、至急御越し下され度、御待ちあげまいらせ候。―― 菊路」

 いぶかりながら、しげしげと見眺めていましたが、ふと不審の湧いたのはその筆蹟でした。妹菊路は彼自身も言葉を添えてたしかにお家流を習わした筈なのに、手紙の文字は似てもつかぬ金釘流の稚筆だったからです。のみならず展《の》べ紙の左|端《はし》に、何やら、べっとりと油じみた汚《し》みのあとがありましたので、試みにその匂いを嗅いでみると、これが浅ましい事にはあまり上等でない梅花香の汚《し》みでした。菊路が好んで用いる髪の油は、もっと高貴な香を放つ白夢香の筈でしたから、退屈男の両眼がらんらんとして異様な輝きを帯びたかと見るまに、鋭い言葉が断ずるごとくに吐かれました。
「馬鹿者達めがッ。にせの手紙を使ったな」
 途端――。
「御門番どの、只今帰りましてござります。おあけ下されませい」
 言う声と共に、番士があたふたと駈け出していった容子でしたが、御門を開けられると同時に、不審な一挺の空駕籠が邸内に運び入れられたので、当然退屈男の鋭い眼が探るごとくに注がれました。
 と――、これがいかにも奇態なのです。金鋲《きんびょう》打った飾り駕籠に不審はなかったが、いぶかしいのは赤い提灯そのものです。焼けて骨ばかりになったのが、もう一つ棒鼻の先に掛かっているところを見ると、出先でその新しい方を借りてでも来たらしく思われますが、奇態なことにその提灯の紋所《もんどころ》が、大名屋敷や武家屋敷なぞに見られる紋とはあまりにも縁の遠い、丸に丁と言う文字を
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