馳走をしろよ」
愛撫のこもった揶揄《やゆ》を愛妹にのこしておいて例のごとくに深々と宗十郎頭巾にその面を包みながら、やがて悠々と素足に雪駄の意気な歩みを表に運ばせて行くと、吸われるように深夜の闇へ消え去りました。
四
表は無論もう九ツすぎで、このあたり唯聞えるものは、深夜の空にびょうびょうと不気味に吠える野犬の唸り声のみでした。その深い闇の道を退屈男は影のみの男のように、足音も立てずすいすいと宮戸川べりに沿いながら行くこと七丁――。波も死んだようでしたが、そこの岸辺の一郭に、目ざした榊原大内記侯のお下屋敷を発見すると、俄然、爪先迄も鏘々《そうそう》として音を立てんばかりに、引締りました。緊張するのも無理はない。殆んど三年越し退屈しきっていたところへ、突如として今、腕力か智力か、少なくも何程か主水之介の力を必要とする事件が降って湧いたのです。無論まだ諸羽流《もろはりゅう》正眼崩《せいがんくず》しを要するか否かは計り知らない事でしたが、事の急は、それなる霧島京弥といった男の行方不明事件が、自発的のものであるか、他より誘拐されたものであるか、誘拐されたものとするなら、およそどういう原因のもとに、どういう方面の者の手が伸びているか、先ず第一にその事を嗅ぎ知る必要がありましたので、敵か味方かも分らぬ大内記の下屋敷を目ざしつつぬかりなく歩みよると、それとなく屋敷の構えを窺《うかが》いました。――そもそもがこのあたり隅田川べりのお下屋敷は、殆んど大半が別荘代りを目的のものでしたので、警固の工合なぞも割に簡単な構えでしたが、しかし簡単とは言うものの、榊原大内記侯はともかくもお禄高十二万石の封主です。留守を預かる番士の者も相当の数らしく、御門の厳重、お長屋の構え、なかなかに侮《あなど》りがたい厳しさでした。勿論正々堂々と押し入ったにしても、主水之介とて無役ながらも天下御直参のいち人とすれば、榊原十二万石ぐらい何のその恐るるところではなかったが、紊《みだ》りに事を荒立てて、正面切って押し入ったのでは、事件を隠蔽される懸念がありましたので、先ず事実の端緒《たんちょ》をつかむ迄はと、退屈男は影のように近よりながら、邸内の様子を窺いました。
と――、御門前迄近よった時、ちかりと目に這入ったものはその武者窓囲《むしゃまどがこ》いにされている御門番詰所の中から、洩れるともなく洩れて来た灯りです。深夜の九ツ過ぎに御門番詰所の中から、なお灯りの見えていることは、未だに誰か外出している事を証明していましたので、何びとが門を預かっているか、そっと忍び寄りながら武者窓の隙から中をのぞいてみると、少しこれが不審でした。禄高十二万石の御門番ですから、屈強な御番士が門を預かっているのに不審はないが、余程退屈しているためにか、それとも目がない程に好きであったためにか、ひとりでしきりに将棋を差しているのです。それも何かむずかしい詰め手にでも打つかったものか、やや顔を青めながら、やけに腕を拱《こまぬ》いて考え込んでいる姿が目に映ったので、退屈男は急に何か素晴らしい奇計をでも思いついたもののごとく、にんめり微笑をもらすと、その武者窓下にぴたり身を平《ひら》みつけて、わざと声色をつくりながら、突然|陰《いん》にこもった声で呼びました。
「ゴモンバン――こりゃ、ゴモンバン――」
屋敷が隅田川へのぞんだ位置であったとこへその呼び方が並大抵な呼び方ではなく、さながら河童ガ淵の河童が人を淵の中へ呼び入れる時に呼んだ声は、こんな呼び声ではなかったろうかと思われるような、気味わるく陰にこもった声で御門番とやったので、番士は少々ぞっとしたらしく、恐々《こわごわ》やって来て恐々窓から表をのぞくと、きょろきょろあたりを見廻しながら呟きました。
「――変だな、たしかに今気味のわるい声で呼びやがったがな。気のせいだったかな」
のぞいて、姿のないのに、いぶかりながらまた将棋盤に向ったらしいのを見すますと、退屈男の同じ不気味な声色が深夜の空気をふるわして陰々と聞えました。
「ゴモンバン――こりゃ、ゴモンバン――」
「畜生ッ、いやな声でまた呼びやがったな。どこのやつだッ」
恐々《こわごわ》さしのぞいて、恐々探しましたが、丁度格子窓の出ッ張りの下に平《ひら》みついているのですから、分る筈はないのです。不気味そうに帰っていったのを見すますと、追いかけながらまた退屈男の言う声が聞えました。
「――ゴモンバン、こりゃ、ゴモンバン」
とうとう癇にさわったに違いない。
「ふざけた真似をしやがって、どこの河童だ。化かそうと思ったって化かされないぞ!」
白《せりふ》は勇ましいが慄え声で、恐々《こわごわ》くぐりをあけながら、恐る恐る顔をのぞかしたところを、武道鍛錬の冴えをもってぎゅっとつかみ押え
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