旗本退屈男 第一話
旗本退屈男
佐々木味津三
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)泰平《たいへい》
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)無論|嫖客《ひょうきゃく》は
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)きっといろ[#「いろ」に傍点]に
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一
――時刻は宵の五ツ前。
――場所は吉原仲之町。
それも江戸の泰平《たいへい》が今絶頂という元禄《げんろく》さ中の仲之町の、ちらりほらりと花の便りが、きのう今日あたりから立ちそめかけた春の宵の五ツ前でしたから、無論|嫖客《ひょうきゃく》は出盛り時です。
だのに突如として色里に野暮な叫び声があがりました。
「待て、待て、待たぬかッ。うぬも二本差しなら、売られた喧嘩を買わずに、逃げて帰る卑怯者があるかッ。さ! 抜けッ、抜けッ。抜かぬかッ」
それもどうやら四十過ぎた分別盛りらしいのを筆頭に、何れも肩のいかつい二本差しが四人して、たったひとりを追いかけながら、無理無体に野暮な喧嘩を仕掛けているらしい様子でしたから、どう見てもあまりぞっとしない話でしたが、売られた方ももうそうなったならば、いっそ男らしく抜けばいいのにと思われるのに、よくよく見るとこれが無理もないことでした。――年はよくとって十八か九、どこか名のあるお大名の小姓勤《こしょうづと》めでもしているとみえて、普通ならばもうとっくに元服していなければならない年頃と思われるのに、まだふっさりとした前髪立《まえかみだ》ちの若衆なのです。
だからというわけでもあるまいが、なにしろ一方は見るからに剣豪《けんごう》らしいのが、それも四人連れでしたので、どう間違ったにしても不覚を取る気遣いはないという自信があったものか、中でも一番人を斬りたくてうずついているらしいのが、最初に追っかけて来た四十侍に代り合って若衆髷の帰路を遮断すると、もう柄頭《つかがしら》に手をかけながら、口汚なく挑みかかりました。
「生《なま》ッ白《ちろ》い面《つら》しやがって、やさしいばかりが能じゃないぞッ。さ、抜けッ、抜かぬかッ」
可哀そうに若衆は、垣間《かいま》見ただけでも身の内が、ぼッと熱くなる程な容色を持っているというのに、こういう野暮天な人斬り亡者共にかかっては、折角稀れな美貌も一向役に立たぬとみえて、口汚なく罵しられるのをじっと忍びながら、ひたすらに詫びる[#「詫びる」は底本では「詑びる」と誤植]のでした。
「相済みませぬ。相済みませぬ。先を急がねばなりませぬゆえ、お許しなされて下さりませ。もうお許しなされて下さりませ」
「何だとッ? では、貴様どうあっても抜かぬつもりかッ」
「はっ、抜くすべも存じませぬゆえ、もうお目こぼし下されませ」
「馬鹿者ッ、抜くすべも知らぬとは何ごとじゃ、貴様われわれを愚弄いたしおるなッ」
「どう以《も》ちまして。生れつき口不調法でござりますゆえ、なんと申してお詫び[#「詫び」は底本では「詑び」と誤植]したらよいやら分らぬのでござります。それに主人の御用向きで、少しく先を急がねばなりませぬゆえ、もうお許しなされまして、道をおあけ下さりませ。お願いでござります」
「ならぬならぬ! そう聞いてはなおさら許す事|罷《まか》り成らぬわ。どこの塩垂《しおたれ》主人かは存ぜぬが、かような場所での用向きならば、どうせ碌な事ではあるまい。それに第一、うぬのその生ッ白い面《つら》が癪に障るのじゃ。聞けば近頃河原者が、面の優しいを売り物にして御大家へ出入りいたし、侍風を吹かしているとか聞いているが、うぬも大方その螢侍《ほたるざむらい》じゃろう。ここでわれわれの目にかかったのが災難じゃ。さ! 抜けッ、抜いていさぎよく往生しろッ」
――これで見ると喧嘩のもとは、若衆の姿が柔弱なので、それが無闇と癪に障ってならぬと言うのがその原因らしいのですが、いずれにしても脅迫されているのは只ひとり、している他方は四人という取り合せでしたから、同情の集まるのはいつの時代も同じように弱そうなその若衆の方で、新造禿《しんぞうかむろ》、出前持の兄哥《あにい》、はては目の見えぬ按摩迄が口々にさざめき立てました。
「ま! お可哀いそうに。ああいうのがきっと甚助侍と言うんですよ」
「違げえねえ。あのでこぼこ侍達め、きっといろ[#「いろ」に傍点]に振られたんだぜ」
「なんの、あんなのにいろ[#「いろ」に傍点]なんぞあってたまりますかい。誰も女の子がかまってくれねえので、八ツ当りに喧嘩吹っかけたんですよ」
しかし言うは言っても只言うだけの事で、悲しい事に民衆の声は、正義の叫びには相違ないが、いつも実力のこれに相伴わないのが遺憾です。芝居や講談ならばこういう時に、打ちかけ姿の太夫が降って湧
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