と抉《えぐ》り彫られて、凄絶と言うか、凄艶と言うか、ちらりとこれを望んだだけでも身ぶるい立つような見事さでした。
と見るや不審です。
道場荒しの赤谷伝九郎と言われた剣客らしい奴が、じろじろとその眉間の傷痕を見眺めていましたが、おどろいたもののごとくに突然ぎょっとすると、うろたえながら下知を与えました。
「悪い奴に打つかりやがった。退《ひ》けッ退けッ」
しかも自身先に立って刄を引くと、周章狼狽しながら、こそこそと群衆の中に逃げかくれてしまいました。
二
まことに不思議と言うのほかはない。恐るべき傷痕の威嚇と言うのほかはない。――いや、不思議でもない。不審でもない。当然でした。赤谷伝九郎ならずとも、眉間のその三日月形がちらりとでも目に這入ったならば、逃げかくれてしまうのが当然なことでした。なにをかくそう、このいぶかしかった若|武者《むしゃ》こそは、これぞ余人ならず、今江戸八百八町において、竹光《たけみつ》なりとも刀差す程のものならばその名を知らぬ者のない、旗本退屈男《はたもとたいくつおとこ》と異名《いみょう》をとった早乙女主水之介《さおとめもんどのすけ》だったからです。――屋敷は本所長割下水、禄は直参旗本の千二百石、剣の奥義は篠崎竹雲斎《しのざきちくうんさい》の諸羽流《もろはりゅう》、威嚇のもととなったそれなる三日月形の傷痕は、実に彼が今から三年前の三十一の時、長藩七人組と称された剣客団を浅草雷門に於て向うに廻し、各々これを一刀薙ぎに斬り伏せた折、それを記念するかのごとくに対手から負わされたその傷痕でした。無論人を威嚇するに至った原因は、それなる七人をよく一刀薙ぎに斬り伏せたからにも依るが、よりもっと大きな威嚇のもととなったものは、その時主水之介が初めて見せた諸羽流奥義の正眼《せいがん》崩しで、当時七人組は江戸の町道場を人なきごとくに泣かせ歩いた剣豪揃いだったにもかかわらず、ひとたび彼の正眼崩しに出会うや否や、誰一人これを破りうる者がなく、七人が七人悉く敢ない最期をとげたので、早乙女主水之介の驍名《ぎょうめい》はその時うけた三日月形の傷痕と共に、たちまち江戸御府内を蔽うに至りました。しかも、身は将軍家以外には膝を屈する必要のない、天下御直参の旗本という権門にいたので、赤谷伝九郎が三日月のその傷痕を発見すると同時に、手もなく消えてなくなった位のことは、別に不思議とするに足りない事でしたが、しかし、少しばかり不審だった事は、救われたそれなるお小姓の方です。よし、手は下さなかったにしても、ともかく危難を救い出されたとすれば、お礼のひとこと位は言うべきが武士の定法の筈でしたのに、どうした事か主水之介が気がついてみると、すでに若衆髷の姿は煙のごとくいず地かへ失せ去っていたあとでした。
「ほほう、若者までが消え失せるとは少し奇態じゃな」
いぶかしそうに首をかしげていましたが、やがて静かにまた頭巾をすると、両手を懐中に素足の雪駄を音もなく運ばせて、群衆達の感嘆しながらどよめき合っている中を、悠然として江戸町の方へ曲って行きました。
だが、曲るは曲って行ったにしても、素見《ひやかし》一つするでもなく、勿論|登《あが》ろうというような気はいは更になく、唯何と言うことなくぶらりぶらりと、曲っていっただけの事でした。しかし、何の目的もないかと言うに、そうではないのです。実はこれが主水之介に、あまり類のない旗本退屈男と言うような異名を生じさせたそもそもの原因ですが、実に彼のこうして吉原五町街をぶらぶらとあてもなくさ迷いつづける事は、きのうや今日に始まったのではなく、殆んど三年来の一日一夜も欠かしたことのない日課なのでした。それも通いつめた女でもあるのなら格別なこと、どこにそれと思われる対手もないのに、唯そうやって一廻りするだけなのですから、まことに変り者です。しかし主水之介にして見れば大いに理由のあることで、せめてもそんな事なとしていなくては、とても彼は、この人の世が、否生きている事すら迄が、退屈で退屈でならないためからでした。
退屈! 退屈! 不思議な退屈! 何が彼をそんなに退屈させたか?――言わずと知れたその原因は、古今に稀な元禄という泰平限りない時代そのものが、この秀抜な直参旗本を悉く退屈させたのでした。今更改まって説明する迄もなく、およそ直参旗本の本来なる職分は、天下騒乱有事の際をおもんぱかって備えられた筈のものであるのに、小癪なことにも江戸の天下は平穏すぎて、腹の立つ程な泰平ぶりを示し、折角無双な腕力を持っていても、これを生かすべき戦乱はなく、ために栄達の折もなく、むしろ過ぎたるは及ばざるに如《し》かずのごとき無事泰平を示現しつつありましたので、早乙女主水之介のごとき生粋の直参旗本にとっては、この世が退屈に思われ
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