思ったか、血がめのそのふたのつまみ柄のまわりへ、ぺたぺたとぬりつけました。それだけなのです。
「さあ、できた。ねぐらへ帰って、いい夢でも見ようぜ。きょときょとしていると、置いていくよ……」
 居合い切りのようなあざやかさでした。鳴るひまも、ひねるひまも、声をはさむすきさえないのです。さっさと風のように八丁堀へ帰っていくと、ぶつぶつと口の中で何かいっている伝六をしりめにかけながら、ふくふくと夢路を急ぎました。
 と思うまもなく、明けるに早い春の夜は、夢いろの暁にぼかされて、しらじらと白みそめました。同時です。ぱたぱたという足音がしののめの道にひびいて、表の向こうからあわただしく近づきました。
「つれたな……!」
 ぐっすりと眠りに落ちていたかと思ったのに、さすがは名人右門、心の耳は起きていたのです。足音の近づくと同時に、がばと起きあがって待ちうけているところへ、三庵《さんあん》の家の下男が、案内も請わず内庭先へ飛び込んでくると、密封の一書を投げこみながら、そのまま急ぐようにせきたてました。
「すぐさまお運び願えとのことでござりました。なんでござりまするか、委細は手紙の中にしたためてあるそうでござりますゆえ、お早くお出まし願います」
 うろたえた文字で、走り書きがしてあるのです。
 「奇怪千万、またまた生血が降り候《そうろう》。ただし、軸物にはそうらわず、念のためにと存じ、咋夜は床の物取りはずし置き候ところ、ただいま見れば壁に二カ所、床板に三カ所、ぺったりと血のしたたりこれあり候。ご足労ながら、いま一度ご検分願わしく、ご来駕《らいが》待ちわびおり候」
 読み下しながら、静かな笑《え》みをみせると、ふりかえって、伝六を促しました。
「大だいがつれたようだぜ。早くしゃっきりと立ちなよ。なにをぽうっとしているんだ」
「がみがみいいなさんな。変なことばかりなさるんで、まくらもとへすわってだんなの寝顔をみていたら、頼みもしねえのに夜が明けちまったんですよ。ひと晩寝なきゃ、だれだってぽうっとなるんです」
「あきれたやつだな。寝ずの番をしていたって、夜が明けなきゃあさかなはつれねえんだ。ゆうべぬったうるしが、ものをいってるんだよ。目がさめるから、飛んできな」
 声も早いが足も早い。朝風ぬるい町から町を急いで、塗町かどの三庵屋敷へはいっていくと、床の血でもしらべるかと思いのほかに、そんなけぶりもないのです。内玄関先へ出て待って、青ざめ震えていた三庵の姿をみると、やにわにずばりと命じました。
「手を見たい。家の者残らずこれへ呼ばっしゃい」
「手……? 手と申しますると?」
「文句はいりませぬ。言いつけどおりにすればいいのじゃ。早くこれへひとり残らず呼ばっしゃい」
 いずれもいぶかりながら、書生、代診、下男、下女、残らずの雇い人たちがぞろぞろと出てくると、左右から手の林をつくって名人の目の前にさし出しました。ちらりと見たきり、だれの手にも異状はないのです。あとからゆうべのあの千萩が、おもはゆげに姿を見せると、そこのついたての陰から、白い美しい手を恥ずかしそうにさし出しました。しかし、異状はない。――あとにつづいて、母親が姿を見せました。
 ちらりと見ると、その左手に白い布が巻いてあるのです。せつなでした。鋭く名人の目が光ったかと思うといっしょに、えぐるような声がその顔を打ちました。
「その手はうるしかぶれでござろう」
 ぎょっと色を変えて、うろたえながら隠そうとしたのを、しかしもうおそいのです。名人が莞爾《かんじ》と大きく笑いながら、手を振るようにして雇い人たちを追いやって、まず秘密の壁をつくっておくと、静かにあびせました。
「これが右門流のつりえさだ。よくおわかりか。ゆうべおそくにわざわざやって来て、こっそりとあの血がめのふたへうるしを塗っておいたんだ。そのふたにさわったからこそ、そのとおりうるしにかぶれたんでござろう。なに用あって、あの血のかめのふたをおあけなすった」
「…………」
「いいませぬな! 情けも水物、吟味|詮議《せんぎ》も水物だ。手間を取らせたら、いくらでも啖呵《たんか》の用意があるんですぜ。ただの用であのかめのふたへさわったんではござんすまい。たびたび二階の床の間へ血が降っているんだ。そのうるしかぶれがなにより生きた証拠、すっぱりと、ネタを割ったらどうでござんす」
「わ、わかりました……なるほどよくわかりました。この証拠を見られては、もう隠しだてもなりますまいゆえ申します……申します……」
 名人に責めたてられてはと、覚悟ができたと見えるのです。たえかねるようにそこへ泣きくずおれると、老いたる母親は涙にしゃくりあげ、しゃくりあげ秘密を割りました。
「も、申しわけござりませぬ。人騒がせのあの血をまいたのは、いかにもてまえでござります。
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