あのいろ、あの様子では、どこに一つ疑わしいところはないのでした。なぞの雲は、はてしもなく深くなったのです。
考え迷い、考え迷って、いつどこを歩いたとも知らないように歩いてきた名人は、ぴたりとそこの和泉橋《いずみばし》の上に立ち止まると、くぎづけになったようにたたずんだまま、しんしんとまた考えこみました。
6
夜もまたまったくふけ渡って、星もいつのまにか消えたか、深夜の空はまっくらでした。
影もない。音もない。思い出したようにざわざわと吹き渡る川風が、なまあったかくふわりふわりと、人の息のようにえり首をなでて通りました。
遺恨あってのしわざか? いたずらか……?
それすらもわからないのです。つかみどころがないのです。
思い出したように、また川風がふわりふわりとなでて通りました。あざけるように橋の下で、びちゃびちゃと川波が鳴りました。
名人はしんしんと考えつづけたままでした。
考えているうちに、しかし、名人の手はいつのまにか、そろりそろりとあのあごをなではじめました。――せつなです。
「アハハハ。なんでえ、つまらねえ。あんまり考えすぎるから、事がむずかしくなるんだ。手はいくらでもあるじゃねえかよ。ばかばかしい。アハハ……アハハ……」
吹きあげたように、とつぜん大きく笑いだしたかと思うと、さわやかな声がのぼりました。
「ねえ、あにい!」
「…………」
「あにいといってるんだ。いねえのかよ、伝六」
「い、い、いるんですよ。ここにひとりおるんですよ。気味のわるいほど考えこんでしまったんで、どうなることかとこっちも息を殺していたんです。いたら、いきなりぱんぱんと笑いだしたんで、気が遠くなったんですよ。あっしがここにおったら、なにがどうしたというんです」
「どうもしねえさ。岡の三庵先生は何商売だったっけな」
「医者じゃねえですかよ」
「医者なら、血があったって不思議はねえだろう」
「だれも不思議だといやしませんよ。おできも切りゃ、血の出る傷も手当をするのがお医者の一つ芸なんだ。医者のうちに血があったら、なにがどうしたというんですかよ」
「血をいじくるが稼業《かぎょう》なら、血を始末するかめかおけがあるだろうというのさ。どう考えたって、あの床の間へ降った血は、外から忍びこんできたいたずらのしわざじゃねえ。たしかに、あの家の者がやったにちげえねえんだ。その血も、十中八、九、おけかかめにためてある病人の血を塗ったものに相違あるめえというんだよ。だから、血がめにえさをたれに行くのよ。ついてきな」
「えさ……?」
「変な声を出さなくともいいんだよ。そういうまにも、また今夜血を降らされちゃ事がめんどうだ。早いことえさをたれておかなくちゃならねえから、とっととついてきな」
なにか目ざましい右門流を思いついたとみえるのです。飛ぶように夜ふけの町をぬけて、岡三庵の屋敷通りの塗町《ぬしちょう》へ曲がっていくと、軒をそろえてずらりと並んでいるそこの塗屋《ぬしや》の一軒へずかずかと近づいていって、いつにもなく御用名を名のりながら、どんどんたたき起こしました。
「八丁堀の右門じゃ。御用の筋がある。早くあけろ」
あわてうろたえながら丁松らしいのがあけたのを待ちうけて、ずいと中へはいると、やにわに不思議な品を求めました。
「生うるしがあるだろう。なにか小つぼに入れて少しよこせ」
塗町とまで名のついた町の塗屋なのです。生うるしがないはずはない。なにごとかというように筆まで添えて、小つぼに入れながら持ってきたのを片手にすると、そのままさっさと岡三庵の屋敷まえへ取ってかえして、せきたてながら伝六に命じました。
「おめえの一つ芸だ。はええところ血がめのありかを捜してきなよ」
「…………?」
「なにをまごまごしてるんだ。内庭か、外庭か、どっちにしても外科べやの近所の庭先にちげえねえ。あり場所さえわかりゃ、おいらがちょいとおまじないするんだ。大急ぎで捜してこなくちゃ、夜が明けるじゃねえかよ」
ひねりひねり、横路地のくぐり木戸からはいっていくと、中べいを乗り越えてでもいるとみえて、しばらくがさがさという音がつづいていたが、ぽっかりとまた顔をのぞかせると、息をころしながら名人のそでを引きました。
伝六一つ芸の名に恥じず、中べいを乗り越えていってみると、案の定、内庭と外庭との境になっている外科べやの小窓下に、ねらいをつけたその血がめがあるのです。ふたをあけてみると、中はぐっちゃり……なまぐさい異臭がぷうんと鼻を刺しました。
「このどろりとしたやつをちょっぴり棒切れにでもつけていきゃ、床の間にだって、天井にだって、自由自在に血が降らあ。では、ひとつ右門流のえびでたいをつろうよ。そっちへどきな」
今のさき求めてきた用意の生うるしを筆にしめすと、何を
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