右門捕物帖
血の降るへや
佐々木味津三
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)初午《はつうま》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)左|甚五郎《じんごろう》
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その第三十七番てがらです。
二月の末でした。あさごとにぬくみがまして江戸も二月の声をきくと、もう春が近い。
初午《はつうま》に雛市《ひないち》、梅見に天神祭り、二月の行事といえばまずこの四つです。
初午はいうまでもなく稲荷《いなり》まつり、雛市は雛の市、梅見は梅見、天神祭りは二十五日の菅公祭《かんこうさい》、湯島、亀戸《かめいど》、天神と名のつくほどのところはむろんのことだが、お社でなくとも天神さまに縁のあるところは、この二十五日、それぞれ思い思いの天神祭りをするのが例でした。
寺小屋がそうです。
書道指南所がそうです。
それから私塾《しじゅく》。
およそ、文字と筆にかかわりのあるところは、それぞれ菅公の徳をたたえ、その能筆にあやかろうという祈念から、筆子、門人、弟子《でし》一統残らずを招いて、盛大なところは盛大に、さびれているところはさびれたなりに、それぞれおもいおもいの趣向をこらしながら、ともかくにも、この日一日を楽しむのがそのならわしでした。
「だからいうんだ。理のねえことをいうんじゃねえんですよ。あっしゃ無筆だから、先生も師匠も和尚《おしょう》もねえが、だんなはそうはいかねえ、物がお違いあそばすんだからね。それをいうんですよ! それを!」
やっているのです。
ご番所をさがって帰っての夕ぐれのしっぽりどき……伝六、でんでん、名人、むっつり、ふたりの、これは初午であろうと二十五日であろうと、年じゅう行事であるから……ここをせんどと伝六のやっているのに不思議はないが、やられている名人はとみると、あかりもないへやのまんなかに長々となって、忍びよる夕ぐれを楽しんでいるかのようでした。つまり、それがよくないというのです。
「きのうやきょうのお約束じゃねえ、もう十日もまえからたびたびそういってきているんですよ。牛込の守屋《もりや》先生、下谷《したや》の高島先生、いの字を習ったか、ろの字を習ったかしらねえが、両方から二度も三度もお使いをいただいているんだ。去年も来なかった。おととしもみえなかった。古いむかしの筆子ほどなつかしい。今度の天神まつりにはぜひ来いと、わざわざねんごろなお使いをくだすったんじゃねえですか。のっぴきならねえ用でもあるなら格別、そうしてごろごろしている暇がありゃ、両方へ二、三べんいってこられるんですよ。じれってえっちゃありゃしねえ。日ぐれをみていたら、何がいってえおもしれえんです」
「…………」
「え! だんな! ばくちにいってらっしゃい、女狂いにいってらっしゃいというんじゃねえですよ。親は子のはじまり、師匠は後生のはじまり、ごきげん伺いに行きゃ先生がたがよぼよぼのしわをのばしてお喜びなさるから、いっておせじを使っていらっしゃいというんだ。世話のやけるっちゃありゃしねえ。そんな顔をして障子とにらめっこをしていたら、何がおもしれえんですかよ。障子には棧《さん》はあるが、棧は棧でも女郎屋の格子《こうし》たア違いますぜ。それをいうんだ。それを!」
「…………」
「じれじれするだんなだな。なんとかいいなさいよ」
ことり、とそのとき、何か玄関先へ止まったらしいけはいでした。どうやら、駕籠《かご》らしいのです。と思われるといっしょに、呼ぶ声がきこえました。
「お待ちどうさま。お迎えでござんす……」
「そうれ、ごらんなせえ。だから、いわねえこっちゃねえんだ。牛込か下谷か、どっちかの先生が待ちかねて、お迎えの駕籠をよこしたんですよ。はええところおしたくなせえまし!」
「…………?」
「なにを考えているんです。首なぞひねるところはねえんですよ。しびれをきらして、どっちかの先生がわざわざお迎えをよこしたんだ。行くなら行く、よすならよすと、はきはき決めたらいいじゃねえですかよ!」
「あの、お待ちかねですから、お早く願います……」
せきたてるようにまた呼んだ表の声をききながら、不審そうに首をかしげて、しきりと鼻をくんくん鳴らしていたが、不意に名人がおどろくべきことをいって立ちあがりました。
「医者の駕籠だな! たしかに、煎薬《せんやく》のにおいだ。どこかで何かが何かになったかもしれねえ。ぱちくりしている暇があったら、十手でもみがいて出かけるしたくでもしろい。うるせえやつだ……」
のぞいてみると、まさしくそのことばのとおり医者の駕籠です。それもよほど繁盛している医者とみえて、りっぱな乗用駕籠でした。
しかし、ちょうちんはない。それがまず不審の種でした。あかりも持たずにいきなり玄関先へ駕籠をすえ
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