て、しきりとせきたてているところをみると、急用も急用にちがいないが、それよりも人目にかかることを恐れている秘密の用に相違ないのです。
「人違いではあるまいな」
「ござんせぬ。だんなさまをお迎えに来たんです。どうぞ、お早く願います」
たれをあげて促した駕籠の中をひょいとみると、何か書いた紙片が目につきました。
「くれぐれもご内密に願いあげ候《そうろう》」
という字が見えるのです。
「よし、わかりました。――ついてこい!」
どこのだれが、なんの用で呼びに来たのか、ところもきかず名もきかず、行く先一つきこうとしないで、すうっとたれをおろすと、さっさと急がせました。
ききたくも鳴りたくも伝六なぞが口をさしはさむひまもないほど、駕籠がまた早いのです。
2
海賊橋から江戸橋を渡って、伊勢町《いせちょう》を突き当たると大伝馬町《おおでんまちょう》、そこから左へ曲がると、もう雛市《ひないち》の始まっている十軒店《じゅっけんだな》の通りでした。その突き当たりが今川橋、――渡って、土手ぞいに左へ曲がったかと思うと、まもなく駕籠はその塗町《ぬしちょう》のかどの一軒へ、ぴたりと息づえをおろしました。案の定、このあたり評判の町医、岡三庵《おかさんあん》の前なのです。
「お越しだな! こちらへ、こちらへ。そこでは人の目にたつ。失礼じゃが、こちらからご案内申せ」
待ちきっていたとみえて、あわただしい声といっしょに、その三庵がうろうろしながら取り乱した顔をみせると、おろした駕籠を内玄関のほうへ回させて、そのまま人の目にかかるのを恐れるようにあたふたと招じあげました。
「わざわざお呼びたていたしまして、なんとも申しわけござりませぬ。いえ、なに、じつはその、なんでござります。てまえ参邸いたすが本意でござりますが、――これッ、これッ、なにをうろうろしておるのじゃ。来てはならぬ。行け、行け。のぞくでない!」
ことばもしどろもどろに、うろたえているのです。ひとり残らず家人の者も遠ざけて、きょときょとと八方へ目を配りながら、案内する間もおびえおびえ導いていったところは、二階の奥まった豪壮きわまりないへやでした。
高い天井、みごとな柱、凝ったふすま、なにからなにまでが入念な品を選んだ座敷です。そのへやの床ぎわへこわごわすわると、恐ろしいものをでもしらせるように、三庵が青ざめた顔をふり向けながら、黙って床の間をゆびさしました。
血だ! 大きな床いっぱいのようにかかっている狩野《かのう》ものらしい大幅の上から下へ、ぽたぽたと幾滴も血がしたたりかかっているのです。
「なるほど、わざわざお呼びはこれでござりまするな。いったい、これはどうしたのでござる」
「どうもこうもござりませぬ。岡三庵、今年五十七でござりまするが、生まれてこのかた、こんな気味わるい不思議に出会うたことがござりませぬゆえ、とうとう思いあまって、ご内密におしらべ願おうと、お越し願ったのでござります。よくまあ、これをご覧くださりませ。天井からも、壁からも、ただのひとしずくたれたあとはござりませぬ。床にもただの一滴たれおちてはおりませぬ。それだのに、どこから降ってくるのか、このへやのこの床の間へ軸ものをかけると、知らぬまにこのとおり血が降るのでござります」
「知らぬまに降る?――なるほど、そうでござるか。では、今までにもたびたびこんなことがあったのでござりまするな」
「あった段ではござりませぬ。これをまずご覧くださりませ」
そういうまも、三庵はあたりに気を配りながら、こわごわ袋戸だなをあけると、気味わるそうに幅物を取り出して、名人の前にくりひろげました。
数は六本。その六本のどれにもこれにも、同じようにぽたぽたと血がしたたりかかっているのです。
「なるほど、ちと気味のわるい話でござりまするな。血のいろに古い新しいがあるようじゃが、いつごろから、いったい、こんなことが始まったのでござる」
「数のとおり、ちょうど六日まえからでござります。そちらの右はじがいちばんさきの幅でござりまするが、前の晩までなんの変わりもございませんでしたのに、朝、ちょっとこのへやに用がござりましたゆえ、なんの気なしに上がってまいりまして、ひょいと床を見ましたら、そのとおり血が降っていたのでござります。医者のことでござりますゆえ、稼業《かぎょう》がら、血にはおどろかぬほうでござりまするが、それにしても場所が床の間でござりますそのうえに、このとおり、かかっている品が軸物でござりますゆえ、見つけたときはぎょうてんいたしまして、腰をぬかさんばかりにおどろきましたが、何かのまちがいだろう、まちがいでなくばだれかのいたずらだろうぐらいに思いまして、そちらの二本めのと掛け替えておきましたところ、朝になると、また血が降っているの
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