おっそろしく口のわるい野郎だな。まてまて、かっぱ野郎ッ。用があるんだ、待ちやがれッ」
 おこぜのようになって追いかけようとしたのを、
「よしな! 伝六ッ」
 うしろから名人が静かに呼びとめて、あれを見なというように、にやりとやりながら、あごでそこの下男べやの中をしゃくりました。
 ちょうちんがあるのです。
 それも三張り。
 ただのちょうちんではない。
 三張りともに、深川、船宿、於加田《おかだ》、と抜き字の見えるなまめいたちょうちんが、無言のなぞを包んで下男べやの壁につりさがっているのです。
「へへえ、そうか。なるほどね」
 伝六の目もにやりと笑いました。いかに血のめぐりが大まかにできていたにしても、これを見ては不審がわかないというはずはない。詮議や手入れを拒むほど、位におごる法眼の隠宅に、なまめいた船宿のちょうちんなぞのあることからしてが、すでにふつりあいなのです。ましてや、深川の船宿といえば、男女忍びの出会いの茶屋を看板の穏やかならぬ料亭でした。そのちょうちんが、しかも三張りもあるところをみると、切りさげ髪に紫被布で行ない澄ましていたあのご後室が、若党を供にしばしば忍んでいって、そのたびに借りて帰ったものが、いつとはなしに三張りもたまったものに相違ないのです。
「かっぱ野郎、ほえづらかくなよ。このとおり、おっかねえうしろだてがおつきあそばしていらっしゃるんだ。駕籠ですかい」
「決まってらあ。一眼去って一眼きたるたアこのことよ。早くしな」
 乗ると同時に、目ざしたのはその深川でした。
 暮れるに早い秋の日はもう落日が迫って、七橋《ななはし》、八橋《やはし》、七堀《ななほり》、八堀《やほり》と水の里の深川《たつみ》が近づくにしたがい、大川端《おおかわばた》はいつのまにかとっぷりと夕やみにとざされました。
 さむざむと冷え渡って冷えは強いが、冷えればまた冷えたで相合いこたつのさし向かい、忍びの夢路の寝物語。はだのぬくみを追って急ぐ男と女の影が、影絵のように路地から路地をぬって歩いて、秋深い辰巳《たつみ》の右左、またひとしおのふぜいです。
「ちくしょうッ、ふざけてらあ。ちょろりと今ふたり、天水おけの陰へかくれましたよ。あんなところでちちくるつもりにちげえねえですぜ」
「そんな詮議に来たんじゃねえ。於加田《おかだ》を捜しているんだ。早く見つけなよ」
「いいえ、物事は総じてこまかく運ばねえと、とかくしりがぬけるんだ。ある! ある! あのかどにあるのがそうですよ」
 ぐいと大川からこっちへ切りこんでいる小堀《こぼり》のかどの出っ鼻に、なるほど於加田と書いたあんどんが、ゆらめく水に灯影《ほかげ》を宿して見えました。
 むろん、すぐにも詮議《せんぎ》に押し入るだろうと思われたのに、つねに周到綿密、目の光らせどころにそつがないのです。家のまわり、川筋の様子、何か不審はないかと、そこの小陰にたたずみながら目を光らせました。
 同時に、名人のからだが、はっとなったように泳ぎだしました。
 あるのです。
 不思議な船が、大川岸に四|艘《そう》、小堀の中に三|艘《そう》、人待ち顔につないであるのです。
 それもただの不思議ではない。七艘ともにしめなわを張って、どの舟の船頭もまた一様に同じしめなわを腰へ巻きつけ、人目にたたぬように船龕燈《ふながんどう》をそででおおいながら、いまかいまかと舟宿から出てくる客を持ちうけている様子でした。
「ほほう、そろそろとにおってきたな。うなぎのにおいだか、めざしのにおいだか知らねえが、ただのにおいじゃねえようだぜ。引っこんでな! ひょこひょことそんなところへ顔を出すなよ!」
 しかって、ぴたり、へいぎわへ身をよせた主従の耳へ、船宿の裏二階から小さくそっと呼んだ小女の声が聞こえました。
「船頭さん、おしたくは?」
「いつでもいいよ」
「そう。じゃ、はぎの間のお客さんからお送りするからね。順々にこっちへ舟をたのみますよ」
 ギイギイと、艫音《ろおと》をころしながら忍び寄ってきたのといっしょに、板べいがぽっかりと口をあけて、案内の小女のあとから、あたりをはばかりはばかり、女の姿が現われました。
 十七、八の、まだ肩あげもとれないような下町娘なのです。
「いってらっしゃいまし。どうぞごゆっくり。船頭さん、しっかりたのむよ」
「おいきた。だいじょうぶだよ」
 拾いこむようにして娘を乗せると、奇怪な舟は艫音を急がせながら、ぐんぐんと大川を上へのぼりました。
 入れ違いにまたひとり。
 しかし、今度は三十すぎた奥方ふうの女です。
「ごゆっくりどうぞ……」
 送り出したあとから、またひとり女の姿が、黒板べいの口をくぐって現われました。さらに年のふけた五十近い金持ちの後家らしい女です。
 その舟も同じように、艫音を急がせながら、忍びやかに大川を上へ上へとのぼりました。
 つづいてまたひとり。
 これは二十二、三のあだっぽい鉄火者でした。
 あとから女がまたひとり。
 入れ違いに、やはり女がまたひとり。
 最後に出てきた女は、まさしくどこかのお屋敷勤めの腰元らしい中年増《ちゅうどしま》です。
 名人右門の目は、電光のように輝きました。
 いってらっしゃい。ごゆっくりどうぞ、と意味ありげにいった声も奇怪です。出てきた七人が七人ともに女ばかりだったのも奇怪です。
 そのうえに、舟はいっせいに上へ上へと前後して川をのぼりました。
 しかも、舟にはしめなわが張ってあるのでした。
 船頭の腰にもまた奇怪なことにしめなわが見えました。
 船頭!
 船頭!
 首尾の松につるしてあったのも、まさしくその船頭なのです。
「舟だ。急いで一丁仕立てろッ!」
「がってんでござんす」
 車輪になって伝六が見つけてきた二丁艫《にちょうろ》の伝馬《てんま》に飛び乗ると、
「あの七艘じゃ。見とがめられぬよう追いかけろッ」
 ぴたりと舟底に身をつけて、見えがくれにあとを追跡しました。
 それとも知らず、七艘の不思議な舟は、不思議な女をひとりずつ乗せながら、艫音をころして岸伝いにひたすら上へ上へと急ぎました。
 永代橋をくぐって新大橋、新大橋をくぐって両国橋、やがてさしかかってきたのは、なぞのあの五人をつるしてあった首尾の松です。
 十日の月が雲をかぶって、大川一帯はおぼろ宵《よい》の銀ねずみでした。
 前後しながらのぼっていった奇怪な舟は、その首尾の松へさしかかると、七艘ともに、するりと舳《へさき》を右へ変えて、そこの横堀《よこぼり》を奥へ、ぐんぐんと進みました。
 右は松前|志摩守《しまのかみ》、左は小笠原《おがさわら》家の下屋敷、どちらを見ても、人影一つ灯影《ほかげ》一つ見えない寂しい屋敷ばかりで、突き当たりはまた魔の住み家のような、広大もない本所お倉の高い建物なのです。
 突き当たって右へ折れると、舟のはいっていったところがまたいかにも奇怪でした。寺のようにも見えるのです。お宮のようにも見えるのです。見ようによっては御殿のようにも見えるのです。その不思議な建物の中へ、右の水門から一艘、左の水門から一艘というふうに、時をおいては順々に姿を消しました。
「はてね。お待ちなさいよ」
 しきりと首をひねっていたが、たまには伝六も金的を射当てることがあるのです。
「あれだ、あれだ、この建物アたしかにお富士教ですよ」
「えらいことを知っているな。どこで聞いたんだ」
「七つ屋ですよ。質屋のことをいや、だんなはまたごきげんが悪くなるかもしれねえが、床屋と質屋と銭湯と、こいつア江戸のうわさのはきだめなんだ。こないだ一張羅《いっちょうら》を曲げにいったとき、番頭がぬかしたんですよ。世間が繁盛すると、妙なものまでがはやりだすもんです。近ごろ本所のお蔵前にお富士教ってえのができて、たいそうもなく繁盛するという話だがご存じですかい、とぬかしたんでね。御嶽《おんたけ》教、扶桑《ふそう》教といろいろ聞いちゃおるが、お富士教ってえのはあっしも初耳なんで、今に忘れず覚えていたんですよ。本所のお蔵前といや、ここよりほかにねえんだ。まさしくこれがそのお富士教にちげえねえですぜ」
「どういうお宗旨だかきいてきたか」
「そいつが少々おかしいんだ。お富士教ってえいうからにゃ、富士のお山でも拝むんだろうと思ったのに、心のつかえ、腰の病、気欝《きうつ》にとりつかれている女が参ると、うそをいったようにけろりと直るというんですよ」
「道理でな、女ばかりはいりやがった。それにしても、ご信心のお善女さまが、遠い川下の船宿からこっそり通うのがふにおちねえ。まして、夜参りするたアなおさら不思議だ。どこかにはいるところはねえか捜してみな」
 しかし、どこにもない。あっても、門はぴしりと締まって、水門から消えた舟もはいったきり、その水門もまたぴたりと締まって、へいをのり越えるよりほかに、中へ押し入る道はないのです。
「めんどうだ。猿《えて》のまねをしてやろうぜ。船頭、舟をあの横の石がきへつけなよ」
 ひらりと飛びうつると、えっとばかり気合いをころして身をおどらせながら、築地《ついじ》づくりの高べいへ片手をかけたかとみるまに、するするとぞうさもなくよじのぼりました。その足につかまって、伝六もよたよたとよじのぼりました。
 中は予想のほかに広いのです。
 拝殿らしいのが前にひと棟《むね》。
 内陣とおぼしき建物がその奥にひと棟。
 渡殿《わたどの》、回廊、社務所、額殿《がくでん》、祓殿《はらいでん》、それに信者だまり、建物の数は七、八つも見えました。内庭にはまた水門から堀がつづいて、船頭たちはどこへ姿を消したか、ぬしのないしめなわ舟がなぞのごとくに見えました。
 鉦《かね》もきこえるのです。
 鈴の音も、笙《しょう》篳篥《ひちりき》の音も、そうかと思うと太鼓の音がどろどろどんどんと伝わりました。
 なんの祈祷《きとう》か、祈りがもう始まっているらしいのです。その音をたよりに、名人は一歩一歩と八方へ心を配りながら、拝殿近くへ忍び寄りました。
 同時に、ぴかりと目が光った。
 張りめぐらしてある幔幕《まんまく》に、あの三蓋松《さんがいまつ》の紋どころが見えるのです。
 つるしてある大ちょうちんにも同じ紋が見えるのです。
「におってきたな。出るな! 出るな! 飛び出して姿を見られたら、あとの手数がかからあ。こっちへ隠れてきなよ」
 影を見とがめられないように身を隠しながら、拝殿へ近づくと、回廊にそっと上がって、やみの中から目を光らしました。
 ぼうとぶきみにまたたいている燈明のあかりの下に、楽人たちの姿は見えるが、肝心の信者の姿は、舟で消えたあの女たちの姿は、ひとりも見えないのです。
「じれってえね。どこへもぐりやがったろうね」
「黙ってろ」
 目まぜでしかりながら、息をころして身をひそませていたその目のさきへ、ぽっかりと内陣の奥から人影が浮き上がりました。
 女です。船宿の裏で見かけたあの金持ちの後家らしい大年増でした。何がうれしいのか、厚ぼったいくちびるに、にったりとした笑《え》みを浮かべて、目が怪しく輝き、その両ほおにはほんのりとした赤みが見えました。
 追うように、そのあとからもう一つぽっかりと、同じ内陣の奥から人影が浮きあがりました。
 やはり女です。
 同時でした。伝六がつんとそでを引いてささやきました。
「ちくしょうッ、あれだ、あいつだ。たしかに、あのお高祖頭巾《こそずきん》の女ですぜ」
「なにッ、見まちがいじゃねえか」
「この目でたしかに見たんです。年かっこう、べっぴんぶりもそっくりですよ」
 いかさま年は二十七、八、髪はおすべらかしに、緋《ひ》のはかまをはいて、紫|綸子《りんず》の斎服に行ないすました姿は、穏やかならぬ美人なのです。
 肩を並べて拝殿横の渡殿までやって来ると、魅入るような目を向けて大年増に何かささやきながら、暗い裏庭へ送りこんでおいて、合い図のように渡殿の奥をさしまねきました。
 同時に、いそいそと渡殿を渡りながら出てきた影は、たしかに十七、八のあのういういしい下町娘です。
 待ちうけ
前へ 次へ
全6ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
佐々木 味津三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング