がしちゃたいへんと思ったからね、こうしていっしょうけんめいと張り番していたんですよ。いるんです! いるんです! このとおりまだ戸も締まったきりなんだから、中でもそれと気がつきやがって、きっとどこかにすくんでいるんですよ」
なるほど、ぴしりと戸が締まっているのです。
しかし、その玄関さきも、前庭、内庭も、荒れるがままに荒れ果てて、一面にぼうぼうと枯れ草ばかりでした。
「あき屋敷だな」
「冗、冗、冗談じゃねえですよ。中へ消えるといっしょに、まさしく女と男の話し声が聞こえたからね。たしかに人が住んでいるんですよ」
「はいったきり、だれも出てこなんだか」
「男が出たんです。男がね、若い二十七、八の、いい男でした。話し声がぱったりやんだかと思うと、にやにや笑って若い野郎がひとり出てきたんですが、裏も横もそれっきり戸のあいた音はなし、女はどこからも逃げ出したけはいもねえからね。たしかにまだこのうちにいるんですよ」
聞くや、名人がにやりと笑いました。
「な、な、なにがおかしいんです! 笑いごっちゃねえんですよ。こっちゃひと晩寝もせずに腰骨を痛くして張り番していたんだ。あっしのどこがおかしいんですかよ」
「そろいもそろってまぬけの穴があいているから、おかしいんだ。百年あき屋の前で立ちん棒したって、雌ねこ一匹出てきやしねえよ」
「バカいいなさんな。男と女とふたりで、たしかに話をやったんだ。この耳でちゃんとその話し声を聞いたんですよ。この目で男は出てきたところをたしかに見たが、逃げこんだお高祖頭巾の女は、半匹だって出てきたところを見ねえんだからね。溶けてなくなったら格別、でなきゃたしかにいるんですよ」
「しようのねえやつだな。八人芸だってある世の中じゃねえか。ひとりで男と女のつくり声ぐれえ、だれだってできらあ。年のころは二十七、八、いい男が出てきたといったそいつが逃げこんだ女なんだ。大手ふりながら目の前を逃げられて、なにをぼんやりしていたんだい。論より証拠、中はから屋敷にちげえねえから、あけてみなよ」
案の定、戸をあけると同時に、ぷうんと鼻を刺したのは、屋のうちいちめんに漂うかびのにおいです。長らく大御番組小役にあきでもあって、ここに組住まいをしたものがないのか、たたみ、建具、荒れるにまかせたがらんどうのあき屋でした。
へやは七つ。
女の姿はおろか、人影一つあるはずはない。しかし、そのかわりに目を射たものがある。いちばん奥のへやの床の間の上に、お高祖頭巾と女の衣装がひとそろい、人を小バカにしたように置いてあるのです。
「ちくしょうめ、さてはあの女へび、ひと皮ぬいで逃げやがったね。それならそうとぬかして逃げりゃ、腰の骨まで痛くしやしねえのに、いまいましいね」
「今ごろごまめの歯ぎしりやったっておそいや。ぶつぶついう暇があったら、戸でもあけろい」
まずなにはともかくと、伝六に雨戸をあけさせて明るい縁側へ衣装を持ち出しながら、子細に見しらべました。
お高祖頭巾はもとより、着物も羽織もどっしりと、目方の重いちりめんでした。それに、帯が一本。これもすばらしく品の凝った糸錦《いとにしき》です。
頭巾《ずきん》の色は古代紫。着物は黒地に乱菊模様の小紋ちりめん。羽織も同じ黒の無地、紋は三蓋松《さんがいまつ》でした。
武家の妻女ならば、まず二百石どころから上の高禄《こうろく》をはんだものにちがいない。いずれにしても、品の上等、着付けの凝ったところをみると、相当|由緒《ゆいしょ》ある身分の者です。
「しゃれたものを着ていやがらあ。伝六さまの顔でいきゃ、どこの質屋だってたっぷり十両がところは貸しますぜ」
「黙ってろ。ろくでもないことばかりいっていやがる。さっき男に化けていったとき、どんな着付けだった」
「黒羽二重の着流しで、一本|独鈷《どっこ》の博多《はかた》でしたよ」
「刀はどうだ。さしておったか」
「いねえんです。今から思や、そいつがちっと変なんだが、丸腰に白足袋《しろたび》雪駄《せった》というのっぺりとしたなりでしたよ」
「頭は?」
「手ぬぐい」
「かぶっておったか」
「のせていたんです」
むろん、その手ぬぐいは、髪のぐあいを見られまいと隠したものに相違ない。男が女に化けたものか、女が男に化けたものか、いずれにしてもまえからちゃんと用意して、下に男ものを着込み、上にこの女ものを着付けて、ここへ追いこまれた窮余の末に、上のひと皮を脱ぎ捨てながらゆうゆうと大手をふって、伝六の目のまえを逃げ去ったものにちがいないのです。
「ぼんやりしているから、このとおりいつだって手数がかかるんだ、もういっぺん見せろ」
なにか手がかりになるものはないかと、いま一度取りあげて丹念にしらべ直しました。
帯にもこれと思われる手がかりはない。
頭巾にもない。紋にもない。ちりめんも普通。染めも普通。しかし、その目がたもとの裏へいったとき、ちらりと見えたものがある。
何のまじないか、着物のたもとにも、羽織のたもとにも、その裏のすみに、赤い絹糸が二本縫いこんであるのです。
同時でした。
「なんでえ。べらぼうめ。おいらがすこうし念を入れて調べると、たちまちこういうふうに知恵箱が開いてくるんだからなあ。さあ、眼《がん》がついたんだ、駕籠《かご》の用意しろ」
「かたじけねえ。行く先ゃどっちですかい」
「一石橋《いっこくばし》の呉服|後藤《ごとう》だよ。この絹糸をようみろい。江戸にかずかず名代はあるが、呉服後藤に碁は本因坊、五丁町には御所桜と手まりうたにもある呉服後藤だ。ただの呉服屋じゃねえ。江戸大奥お出入り、お手当米二百石、後藤《ごとう》縫之介《ぬいのすけ》と、名字帯刀までお許しの呉服師だ。位が違います、お仕立ても違いますと、世間へ自慢にあそこで縫った品には、このとおり紅糸をふた筋縫い込んでおくのが店代々のしきたりだよ。このひとそろいの着手も、おそらくは城中お出入り、大奥仕えに縁のある者にちげえねえ。早く呼んできな」
「ちくしょうめ。さあ、事が大きくなったぞ。いつまでたっても、だんなの知恵は無尽蔵だね。やあい、人足! 人足、江戸一あしのはええ駕籠屋はいねえかよ!」
飛び出した声の騒がしさ。右門の知恵も時知らずに無尽蔵だが、伝六の騒々しさも時知らずです。まもなく仕立てた駕籠に乗ると、名人はなぞのひとそろいをたいせつにうちかかえながら、ひたすらに一石橋へ急がせました。
4
呉服後藤に金座後藤、橋をはさんで向かい合っているふたりの後藤が自慢の金で掛けた橋だから、五斗と五斗とをあわせて一石橋と名がついたというお江戸名代の橋です。
この橋たもとに、総格子《そうこうし》六間の間口を構えて、大奥御用呉服所と染めぬいた六間通しののれんが、堀《ほり》から吹きつける風にはたはたとはためきながら、見るからにいかめしい造りでした。
もちろん、お客も町人|下賤《げせん》の小切れ買いではない。城中お出入りの坊主衆、大奥仕えの腰元お局《つぼね》、あるいはまたお旗本の内室といったような身分|由緒《ゆいしょ》のいかめしいお歴々ばかりなのです。
駕籠を乗りつけて、ずいとはいっていくと、黙って名人は八丁堀目じるしの巻き羽織をひねってみせました。
「あっ、なるほど。わかりました。おしらべの筋は?」
「これじゃ」
手にしていたひとそろいをどさりと目のまえへ投げ出しながら、むだをいわずに三蓋松《さんがいまつ》の紋を指さしました。
店の者もまた、ここらあたりに勤めている手代となると、諸事むだがないのです。たもとの裏の絹糸をしらべて、自分のところで仕立てた品であるのをたしかめると、大きな横帳をしきりに繰っていたが、ようやく捜しあてたとみえて、声をひそめながら答えました。
「たしかにござります。先月の二十一日にご注文うけまして、当月二日にお届けいたしました品でござります」
「注文主はだれじゃ」
「ちとご身分のあるおかたでござりまするが」
「承知のうえでしらべに参ったのじゃ。奥仕えのお腰元か」
「いいえ、奥ご医師でござります」
「ほほう、お脈方とのう。しかし、ご医師にもいろいろある。お外科、お口科、お眼科。お婦人科。いずれのほうじゃ」
「いいえ、お鍼医《はりい》の吉田|法眼《ほうげん》さまでござります」
「当人か」
「ご後室さまでござります」
「なに、ご後室とのう。なるほど、そうか。やはり、女だったか! 住まいはいずれじゃ」
「法眼さまがおなくなりになりましてから二年このかた、小石川の伝通院裏にご隠宅を構えて、若党ひとりを相手に、ご閑静なお暮らしをしていらっしゃるとかのことでござります。この品もそちらへお届けいたしました」
「よし、わかった。口外するでないぞ。――駕籠屋《かごや》! 伝通院裏じゃ」
なぞの道は、はしなくも紅糸二本から解けかかってきたのです。
「ありがてえね。ちゃんとこういうふうに骨を拾ってくださるんだからな。お眠くはござんせんかい。お疲れなら肩でももみましょうかい」
「つまらねえきげんをとるな。駕籠に乗って肩がもまれるかい」
「いいえね、もめねえことは万々わかってるんだが、気は心でね。これでもあっしゃ精いっぱいおせじを使っているんですよ。――そらきた。伝通院の裏に二つはねえ。あの三軒のどれかですぜ」
たぶんそのあたりだろうと見当をつけていってみると、案の定、いちばん奥が捜し求めたその隠宅でした。隠宅というとふた間か三間の小さな家にきこえるが、法眼《ほうげん》といえば位は最上、禄《ろく》は百五十石、はぶりをきかした大奥仕えのお鍼医《はりい》の未亡人がこの世を忍ぶ住まいです。門の構え、広い庭、むしろ邸宅といいたいような広大もない住まいでした。
その広い庭の中を通りがかりに、建仁寺垣《けんにんじがき》のすきからひょいとみると、人影がある。
女です。
切りさげ髪に、紫いろの被布を着て、今をさかりに咲きほこっている菊の中を、しゃなりくなりとさまよっている様子は、まさしく当のご後室でした。
だが、いかにも変な女なのです。
たしかにホシとにらんだお高祖頭巾の女は二十七、八のべっぴんといったのに、伝六のしてやられた男も同じ二十七、八ののっぺりとしたやさ男だったというのに、これはまた似てもつかぬ四十すぎの大年増《おおどしま》なのでした。そのうえに肉はでっぷり、顔は寸づまり、押せばぶよんと水気が出そうなほどにもあぶらぎって、どんなにうまく化けたにしても、とうていやさ男なぞに化けきれるような女ではないのです。
「ちくしょうめ、さあいけねえぞ。鯨の油につけたって、いちんちひと晩でこうはこやしがきかねえんだ。くやしいね、急にまた空もようが変わりましたぜ」
「ちっとあぶら肉が多すぎるな」
「おちついた顔をしている場合じゃねえんですよ。たしかにこの隠宅へあの三蓋松《さんがいまつ》のひとそろいを届けたというからにゃ、首尾の松の首っつりもこの家のうちに根を張っているにちげえねえんだ。お城御用まで承る後藤の店でうそをつくはずはねえ。乗り込んで、ひと洗い洗ったらどうでござんす」
「やかましい! だれだッ。そんなところでがんがんいうやつあ!」
そのとき、ぬっと門わきの下男べやからのぞいた顔がある。
三十四、五のふてぶてしい男でした。後藤の店で話した若党にちがいないのです。
伝六の目から、当然のごとくに火が飛びだしました。
「がんがんいうやつたア何をぬかしゃがるんだ。人を見てものをいいねえ! うぬアこのうちの下っぱか!」
「下っぱならどうだというんだ。これみよがしに十手をふりまわしているが、うぬア、不浄役人の下っぱか!」
「野郎。ぬかしたな! 不浄役人の下っぱたアどなたさまに向かっていうんだ。詮議《せんぎ》の筋があって来たんだ。うぬのうちア三蓋松か!」
「知らねえや。とちめんぼうめ! かりにも法眼《ほうげん》の位をいただいたおかたさまのご隠宅なんだ。うぬらごとき不浄役人の詮議うける覚えはねえ。用があったら大目付さまの手形でも持ってきやがれッ。ふふんだ。ひょうろく玉めがッ」
「野郎ッ。
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