ねえ人も同然なんです。御用があるなら、筆で話しておくんなせえまし」
「なんでえ。それならそうと早くいやいいじゃねえか。すずりを出しな」
「七ツ道具の一つなんだから、火ばちの陰にちゃんと用意してありますよ」
 なるほど、筆に紙、ちゃんとしたくがそろっているのです。
 名人の筆はさらさらと走りました。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
「八丁堀右門なり。
[#ここから1字下げ]
神妙に応答すべし。
神田、米屋増屋弥五右衛門方へ後妻を世話せしはそのほうなる由、いかなる縁にてかたづけしや。
かの女につき何か知れることなきや。
ありていに申し立つるべし」
[#ここで字下げ終わり]
 差しつけたのを見て、にやりと笑うと、松長がじつに達筆にさらさらと書きしたためました。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
「よくお越しくだされそうろう。
[#ここから1字下げ]
お尋ねの女はマキと申し、吉原にて女郎五年あい勤めそうろう女にござそうろう。
年あけたるのち、居所を定めず女衒《ぜげん》なぞいたしおりしとか聞き及びそうろうも、つまびらかには存じ申さずそうろう。
てまえ年ごろ世話好きにそうらえば、昨冬とつぜん尋ねまいり、どこぞへ嫁入り口世話いたしくれと申しそうらえば、増弥五こと、家内を失い、不自由いたしおると聞き及びそうろうをさいわい、のち添えにかたづかせそうろうものにござそうろう。縁と申すはただそれだけのことにて、生国も存ぜず、身もとも知れ申さずそうろう。
そうそう、いま一つ思い出しそうろう――」
[#ここで字下げ終わり]
 筆をおいた松長がにたりとさらに笑うと、ふたたびさらさらと書きしたためました。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
「マキこと増弥五へかたづきそうろう節、身付き金七百両ほどをひそかにたくわえおりそうろうとのことにござそうろう。
[#ここから1字下げ]
人のうわさによれば右七百両、あまりよろしからざる金子とかにて、女衒《ぜげん》のかたわら、おりおりいとけなき子ども等かどわかしそうろうてためあげたる不義の金子とか申す由にそうろう」
[#ここで字下げ終わり]
「なにッ」
 名人の眼がぴかりと光った。
 女衒《ぜげん》!
 かどわかし!
 女衒は人を買って人を売る公然の稼業《かぎょう》です。かどわかしは法網をくぐりながら、人を盗み、人をさらって売る暗い稼業《かぎょう》です。女衒とても、もとより芳しい稼業ではないが、女の前身にかどわかしの暗い影があるというにいたっては、じつに聞きのがしがたいことでした。しかも、盗んでさらって売ったものは、頑是《がんぜ》ない子どもだというのでした。
 名人の手は久方ぶりで、そろりそろりといつのまにかあごのあたりをさまよいはじめました。
 子どものかどわかし!――どういう子どもをどこへ売ったか、大きななぞの雲が忽焉《こつえん》として目の前に舞い下がってきたのです。
 女の前身には暗い影があった。
 かどわかしという人の恨みを買うにじゅうぶんな陰があった。
 その女がふろおけの中で絞め殺された。
 死体には子どものつめ跡がある。
 ふろ場の羽目にも跡がある。
 やはり、子どもの手の跡なのだ。
 忍び込んだところは、高い窓なのだ。
 その高い窓から苦もなくはいったとすると、よくよく身の軽い子どもにちがいないのです。
 身軽な子ども……?
 身軽な少年…?
 なぞを解くかぎはそれ一つである。女は子どもをさらって、どういうところへ売ったか。身軽な子どもと売った先との間のつながりを見つけ出したら、このあやしき疑雲はおのずから解けてくるのです。
 名人の手は、しきりとあごのあたりを去来しつづけました。
「うれしいね。それが出ると、峠はもう八合めまで登ったも同然なんだからな。え? ちょっと。伝六もてつだって、あごをなでてあげましょうかい」
「…………」
「やい、やい、松長。そんなにきょとんとした顔をして、不思議そうにだんなのあごをのぞき込まなくともいいんだよ。だんなは今お産をしているんだ、お産をな。気が散っちゃ産めるもんじゃねえ。じゃまにならねえように、その顔をそっちへもっと引っ込めていな!」
 しかし、そうたやすく推断がつくはずはない。ともかくも生きている子どもを盗んで売るのであるから、いずれ売った先も明るい日の照る世界ではないのです。
「旅芸人か、曲芸師……?」
「身の軽い子どもとすれば曲芸師?」
 ポーン、ポーンと隣のへやから、松長の子分たちのもてあそんでいるさえたつぼ音が聞こえました。耳にするや、むっつりと立ち上がって、つかつかとはいっていくと、不意にいったものです。
「ばくちかい。おいらに貸しな」
「こいつを? あの、だんなが……?」
「そうさ。びっくりせんでもいいよ。さいころの音は
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