右門捕物帖
死人ぶろ
佐々木味津三
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)角兵衛獅子《かくべえじし》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一|太刀《たち》
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(例)[#ここから1字下げ]
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その第三十三番てがらです。
朝ごとに江戸は深い霧でした……。
これが降りるようになると、秋が近い。秋が近づくと、江戸の町に景物が決まって二つふえる。角兵衛獅子《かくべえじし》に柳原お馬場の朝げいこ、その二つです。
トウトウトウトウ……ハイヨウハイヨウ……と、まだ起ききらぬ朝の静かな大気を破って、霧をかき分け、町を越えながら、朝ごとにけいこの声が柳原お馬場一帯につづくのでした。
ドコドコドンドン、ヒュウヒョロヒョロと、朝ごとに角兵衛獅子の囃子《はやし》がその柳原お馬場の近くの旅籠町《はたごちょう》からわびしく流れだして、西に東に江戸一円へ散らばっていくのでした。
丁日《ちょうび》は呉服橋北町お番所の面々、半日《はんび》は数寄屋橋《すきやばし》南町お番所詰めの面々が、秋口のひと月間、一日おきにこのお馬場へやって来て、朝のうちの半刻《はんとき》ずつ馬術を練るならわしなのです。
ちょうどこの日がまた、数寄屋橋側のけいこ日の半日なのでした。したがって、南町ご番所名代の伝六が来ないというはずはない。来ればまた、ものおじしないその伝六が、ぼんやりと指をくわえているはずもないのです。
「一|太刀《たち》、二|槍《やり》、三|鎖鎌《くさりがま》、四弓、五馬の六泳ぎといってね、総じて武芸というものは、何によらず、恥ずかしがっていると上達しねえものなんだ。えへ……だれも見ちゃいないね。このまにちょっと乗ってやるかな。え? だんな。あば敬の大将が来たら、ないしょで知らしておくんなさいよ。ほかの者に見られるぶんにゃかまわねえが、あいつに見られちゃ、これからさきおいらをバカにするからね」
「されないようにじょうずに乗ったらいいじゃないかよ」
「そうはいかねえんだ。おいらの馬術は、何流にもねえ流儀なんだからね。――ほらよ、くろ、くろ! おとなしくしているんだよ。名人が乗るんだから、ヒンヒンはねちゃいけねえぜ」
馬ぐらい乗り手を見分けるものはない。ましてや、乗り手が伝六とあっては、くろも南町ご番所名代のこのひょうきん者をよく知っているとみえて、長い顔をさらにぬうと長くのばして笑ったまま、動こうとしないのです。
「ちぇッ、笑いごっちゃねえんです、だんな。なんとか動くように、おまじないしておくんなさいよ」
「何流にもない流儀とやらでお駆けあそばすさ。おいらに頼むより、馬に頼みな。泣かずにひとりでお遊び」
ひらりと乗ると、馬はあしげの逸物、手綱さばきは八条流、みるみるうちに、右門の姿は、深い霧を縫いながらお馬場をまっすぐ向こうへ矢のように遠のきました。
ぐるりと回って帰ってみると、伝六はまだくろとしきりに押し問答をしているさいちゅうなのです。
「後生だから走っておくれよ。何が気に入らなくて、そんなに長い顔をしているんだ」
「…………」
「返事をしなよ、返事を! むりな頼みをしているんじゃねえんだ。おまえは走るが商売じゃねえか。まねごとでもいいから、ちょっくら走ってくんなよ」
せつな。
くろがたてがみをさかだてたかと見るまに、パカパカとすさまじい勢いで走りだしました。
「お、お、おい! な、な、なにをするんだ。冗、冗、冗談じゃねえよ! 本気で走らなくたっていいんだよ! まねごとでいいんだ! よしなよ! よしなよ!」
必死に叫んだが、いまさら止まるはずはない。伝六ごときが、そもそも馬に乗ったのがまちがいなのです。
「一大事だ、一大事だ! だんな、だんな、止めておくんなさいよ。伝六の一大事なんだ。早くなんとかしておくんなさいよ!」
「うまい、うまい。腰つきがなかなかみごとだぞ」
「まずくたっていいですよ! はやしたてりゃ、くろめがよけいずにのって走るじゃござんせんか。よしなよ! よしなよ! くろ! おまえもあんまり薄情じゃねえか! わかったよ、わかったよ! そんなにむきになって走らなくとも、おまえの走れるのはもうわかったんだ。よしなったら、よさねえかよ!」
なだめすかしても聞かばこそ、くろは必死にしがみついている伝六を背中に乗せて、ひた走りに走りつづけました。お馬場は川に沿って細長く七、八町つづいているのです。
ぴゅうぴゅうとうなりをたてんばかりに走りつづけて、その細長いお馬場の行き止まりまであともう一、二町と思われるあたりまで駆けすすんだとき、とつぜん、ちょこちょこと横から飛び出した影がある。
十一、二ぐらいの少年なのです。しかも、手
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