った。それまで、塾生の一人一人に関係したことでは、かゆいところに手がとどくように世話をやいていた朝倉夫人も次郎も、なぜかこの混雑には何の助言も与えず、事務室から、遠目に成り行きを見まもっているといったふうであった。そして、十時半になると、次郎は、予告どおり、一分の遅延《ちえん》もなく廊下《ろうか》のスウィッチをひねり、塾生たちの室の電燈を全部消してしまった。電燈を消されて悲鳴をあげた室も二三あった。
 次郎は、しかし、頓着《とんちゃく》しなかった。かれは電燈を消すまえに、廊下をあるいて、それとなく各室の様子をのぞいてまわったが、どの室よりも早く室員が寝床《ねどこ》についていたのは、第五室であった。そして、大河無門は、その一番はいり口のところに、その大きないが栗頭《ぐりあたま》を横たえ、近眼鏡をかけたまま、しずかに眼をつぶっていたのであった。
 次郎が、それを、その晩の一つの意味深いできごととして、朝倉夫人に報告したことはいうまでもない。
          *
 あくる日は、いよいよ第十回の入塾式だった。二月はじめの武蔵野《むさしの》の寒さはきびしかったが、空は青々と晴れており、地は霜
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