空林庵と呼ぶことになったが、次郎にとっては、庵という字も、もうこのごろでは、じめじめした感じのするものではなくなっている。それどころか、かれは今では、どこにいても、空林庵の名によって自分の現在の幸福を思い、しかもその幸福が、故郷の中学を追われたという不幸な事実に原因していることを思って、人生を支配している「摂理《せつり》」の大きな掌《てのひら》の無限のあたたかさに、深い感謝の念をさえささげているのである。
*
次郎は、今、その空林庵の四畳半で、雀の声をきき、その飛び去ったあとを見おくり、そしてしずかに「歎異抄《たんにしょう》」に読みふけっているわけなのである。
かれがなぜこのごろ「歎異抄」にばかり親しむようになったかは、だれにもわからない。それはあるいは数日後にせまっている第十回目の開塾にそなえる心の用意であるのかもしれない。あるいは、また、かれの朝倉先生に対する気持ちが、「たとへ法然上人《ほうねんしょうにん》にすかされまゐらせて念仏して地獄《じごく》におちたりとも、さらに後悔《こうかい》すべからずさふらふ」という親鸞《しんらん》の言葉と、一脈《いちみゃく》相通
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