をされるか、きいてみたい気持ちで一ぱいだったが、電話のことが気がかりで、やはり自室に残っていた。
 かれの眼は、べつに見る気もなく、机の上にひらいたままの「歎異抄」にそそがれた。そして、最初に眼にとまったのは、つぎの一節だった。
「念仏は、行者《ぎょうじゃ》のために、非行非善なり。わがはからひにて行ずるにあらざれば、非行といふ。わがはからひにてつくる善にあらざれば、非善といふ。ひとへに他力《たりき》にして、自力をはなれたるゆゑに、行者のためには、非行非善なり。」
 かれは、これまで、こうした絶対自力否定の言葉に強く心をひかれていた。それは、しかし、その言葉を素直《すなお》に受けいれてのことではなく、むしろその反対に、素直に受けいれることのできない自分の心のいたらなさをもどかしく思うからのことであった。どうして自分はこうも自分にとらわれるのだろう。自分の力ではどうにもならないということがはっきりわかっている場合でも、自分は身を投げ出して人の助けを求める気にはどうしてもなれない。何というあくどさだ。いや、何というけちくささだ。自分はかつて白鳥会時代には、「無計画の計画」とか、「摂理《せつり
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