を奉じては、国民は親子の情でさえ、たち切らなければならない。いわんや友愛の情をやである。」
「日本では、国民|相互《そうご》の横の道徳は、おのずから、君臣の縦《たて》の道徳の中にふくまれている。陛下に対し奉《たてまつ》る臣民の忠誠心が、すべての道徳に先んじ、すべての道徳を導き育てるのであって、友愛や隣人愛《りんじんあい》が忠誠心を生み出すのでは決してない。」
 およそこういった調子であった。
 次郎はしだいに興奮した。ひとりでに息があらくなり、両手が汗《あせ》ばんで来るのを覚えた。かれは、しかし、懸命《けんめい》に自分を制した。自分を制するために、おりおり、うしろから田沼先生と朝倉先生の顔をのぞいた。かんじんの二人の眼をのぞくことができなかったので、はっきりと、その表情を見わけることはできなかったが、のぞいたかぎりでは、二人とも、すこしも動揺《どうよう》しているようには見えなかった。かれはいくらか救われた気持ちだった。
 かれの視線は、おのずと、朝倉夫人のほうにもひかれた。夫人の横顔は、いつもにくらべると、いくぶん青ざめており、その視線は、つつましく膝《ひざ》の上に重ねている手の甲《こ
前へ 次へ
全436ページ中106ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
下村 湖人 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング