は、むろん予測《よそく》できない。しかし、それで勝とうとする意志だけは失ってはならないんだ。やはり事上錬磨だよ。今日のような場合に、それを忘れるようでは、何のための友愛塾だか、わからなくなる。」
 次郎の耳には、事上錬磨という言葉が異様にひびいた。前の場合には、権力に対する反抗の機会を暗示されたように受け取っていたが、今度の場合は、明らかにその反対のことを意味していたからであった。かれは、しかし、もう何も言うことができなかった。頭も気持ちも、めちゃくちゃに混乱していたのである。
「よくわかりました。気をつけます。」
 かれは、表面|素直《すなお》にそう言って塾長室を出た。そして講堂に行き、今日の式次第《しきしだい》をチョークで黒板に書いたが、いつもは何の気なしに書く「来賓祝辞」の四字が、呪文《じゅもん》のように心にひっかかった。
 式次第を書きおわると、かれは事務室にもどり、新聞を読んでいた塾生たちにまじってストーヴを囲んだ。しかし気持ちはやはりおちつかなかった。
(どんな人をでも、平和であたたかい空気の中に包みこむ、それが塾の理想でなければならないことは、むろんよくわかっている。だが、そのためには、実際にどうふるまええばいいのか。先生は、まさか、ぼくに追従笑《ついしょうわら》いをさせようとしていられるのではあるまい。自然の感情をいつわるところに、何の平和があり、何のあたたかさがあろう。いっさいに先んじて大切なのは、自分をいつわらないことではないのか。)
 そうした疑問が、胸にわだかまって、かれは塾生たちと言葉をかわす気にもなれないのだった。
 そのうちに、ぼつぼつ来賓が見えだした。田沼理事長も、いつもよりは少し早目に自動車で乗りつけた。次郎は、出迎《でむか》えながら、それとなくその顔色をうかがったが、友愛塾の精神を象徴《しょうちょう》するかのような、その平和であたたかな眼には、微塵《みじん》のくもりもなく、そのゆったりとしたものごしには、寸分のみだれも見られなかった。次郎は、ほっとした気持ちになりながらも、一方では、何かにおしつけられるような、変な胸苦しさを覚えた。
 最後に二台の自動車が、同時に乗りつけた。その一つは、荒田老のであり、もう一つは、星章《せいしょう》を光らした大型の陸軍用であった。荒田老は、例によって鈴田《すずた》に手をひかれながら、黒眼鏡の怪奇《
前へ 次へ
全218ページ中48ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
下村 湖人 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング