と、すぐ顔をひっこめた。
次郎は返事をするひまがなかった。というよりも、変にあわてていた。かれはいきなり立ちあがって、部屋の片隅《かたすみ》につみ重ねてあった細長い食卓《しょくたく》の一つを、陽あたりのいい窓ぎわにおくと、走るようにして空林庵《くうりんあん》に朝倉先生をむかえに行った。
二人が広間にはいって来た時には、朝倉夫人は、もう食卓のそばにすわっていた。
「今日はどんぶりのご飯でがまんしていただきますわ。でも、中身はいつもよりごちそうのつもりですの。」
「そうか。」
と、朝倉先生は、どんぶりのふたをとりながら、
「よう、鰻《うなぎ》どんぶりじゃないか。えらく奮発《ふんぱつ》したね。」
「三人だけでご飯をいただくの、当分はこれでおしまいでしょう。ですから――」
「なあんだ、そんな意味か。そうだとすると、せっかくのごちそうだが、少々気がつまるね。」
「どうしてですの。」
「女にとっては、やはり小さな家庭の空気だけが、ほんとうの魅力《みりょく》らしい。そうではないかな。」
「あら、あたし、つい女の地金《じがね》を出してしまいましたかしら。自分では、もうそれほどではないと思っていますけれど。」
「ふ、ふ、ふ。私もそれほど深い意味でいったわけでもないんだ。」
朝倉先生はそう言って笑ったが、すぐ真顔《まがお》になり、床の間の「平常心」の軸にちょっと眼をやった。そして、箸《はし》を動かしながら、しばらく何か考えるようなふうだったが、
「むずかしいもんだね。今度でもう十回目だが、私自身でも、いざ新しく塾生を迎《むか》えるとなると、やはりちょっと悲壮《ひそう》な気持ちになるよ。」
次郎は先生の横顔に眼をすえた。すると、先生はまた、じょうだんめかして、
「やはり、うなどん[#「うなどん」に傍点]ぐらいの壮行会には値《あたい》するかね。はっはっはっ。」
それで夫人も笑いだした。しかし次郎は笑わなかった。先生はちらっと次郎の顔を見たあと、
「しかし、うなどん[#「うなどん」に傍点]ぐらいでごまかせる悲壮感でも、ないよりはまだましかもしれない。元来愛の実践《じっせん》は甘《あま》いものではないんだからね。愛が深ければ深いほど、そして愛の対象が大きければ大きいほど、その実践には、きびしい犠牲《ぎせい》を覚悟《かくご》しなけりゃならん。十字架《じゅうじか》がそれを証明しているん
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