うなさびしさであり、虚無的《きょむてき》な自嘲《じちょう》であった。そして、それ以来、これまでほとんど忘れていたようになっていた道江の顔が、しばしば彼の眼底に出没《しゅつぼつ》するようになり、時としては、荒田老の怪寄な顔を押しのけることさえあったのである。

 広間の窓わくによりかかって眼をつぶったかれは、しかし、二つの顔が代わる代わるその眼底に出没するのに心をまかせていたわけでは、むろんなかった。開塾式を明日にひかえた今、何といっても、かれにとっての最大の関心事は、塾堂生活のことであり、朝倉先生夫妻の助手としてのかれの任務を手落ちなく遂行《すいこう》することであった。だから、かれは、これまでにもいくたびとなく反省して来た過去の塾堂生活の体験を、あらためて反省しなおして、新しい工夫《くふう》をこらすことに専念したかったのである。だが、そうであればあるほど、荒田老の怪奇な顔がかれの顔にのしかかり、道江のあざ笑うような顔がかれの胸をかきみだすのであった。
「ふうっ。」
 と、かれは大きな息をして眼をひらいた。そして、さっきとじこんだ塾生名簿の一つをとりあげ、無意識にそれをめくっていった。塾生がはいって来るまえに、その名前と経歴とをすっかり覚えこんでおこうとする、いつものかれの習慣が、そうさせたのである。しかし、かれの眼にうつったのは、塾生の名前や経歴ではなくて、やはり荒田老の顔であり、道江の顔であった。
 かれは名簿をなげすて、もう一度ふかい息をして、床の間のほうに眼を転じたが、そこには、「平常心」と大書《たいしょ》した掛軸《かけじく》が、全く別の世界のもののように、しずかに明るくたれていた。

   三 大河無門・平木中佐

 昼近くになっても、次郎は広間を出なかった。陽《ひ》を背にして窓によりかかったままぼんやり塾生名簿《じゅくせいめいぼ》を見たり、眼《め》をつぶったり、床《とこ》の間《ま》の掛軸をながめたりして、落ちつかない気持ちを始末しかねていたのである。
「あら、次郎さん、朝からずっとこちらにいらしたの?」
 和服の上に割烹着《かっぽうぎ》をひっかけた朝倉夫人が廊下の窓から顔をのぞかせ、不審《ふしん》そうにそう言ったが、
「ご飯はこちらでいただきましょうね。そのほうがあたたかくってよさそうだわ。じゃあ、すぐはこびますから、先生をお呼びして来てちょうだい。」
 
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