質の塾が、いよいよたいせつになるわけだ。」
といった意味のことを言うだけである。次郎にしてみると、発生が荒田老のことにふれまいとすればするほど、かえって大きな不安を感じ、第十回の開塾式が近づくにつれ、その顔を思い出すことが多くなって来たわけなのである。
かれの眼の底から荒田老の顔が消えると、それに代わって浮《う》かんで来るもう一つの顔があった。それは道江《みちえ》の顔であった。
兄の恭一《きょういち》は、現在東大文学部の三年に籍《せき》をおいている。道江は、女学校卒業後、しきりに女子大入学を希望していたが、何かの都合でそれが実現できなかったらしい。次郎にとっては、むろんそれは不幸なことではなかった。かれは、上京後、日がたつにつれ、いくらかずつ過去の記憶《きおく》からのがれることができ、三年以上もたったこのごろでは、恭一にあっても、はじめのころほどかれと道江とを結びつけて考えることもなく、時には、まるで道江のことなど忘れてしまって、愉快にかれと語りあうことができるまでになっていたのである。
ところが、つい二週間ほどまえ、ちょうど第十回の塾生募集をしめ切ったその日に、道江本人から、かれあてに、全く思いがけない手紙が来た。それには、かれが上京以来三年以上もの間、一度も彼女《かのじょ》に手紙を出さなかったことに対して、冗談《じょうだん》まじりに軽い不平がのべてあり、そのあとに、つぎのような文句が書いてあった。
「近いうちに、父が用事で上京することになりましたので、私もその機会に、見物かたがたつれて行ってもらうことにしました。宿や何かのことは、何もかも恭一さんにおねがいしてありますから、ご安心ください。まだ日取りは、はっきりしません。ついたらすぐお知らせします。お迎《むか》えは恭一さんに出ていただきますから、これもご安心ください。いずれお会いした上で、手紙で言い足りない不平を思いきりならべるつもりでいます。」
次郎は、この文句を通じて、道江のかれに対して抱《いだ》いている感情が普通《ふつう》の友だち以上のものでないことを、はっきり宣告され、同時に彼女と恭一との関係が、過去三年の間にどんな進展を見せているかを暗々裡《あんあんり》に通告されたような気がして、それを読み終わった瞬間《しゅんかん》、頭がかっとなった。しかし、すぐそのあとにかれの心をおそったものは、めいるよ
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