いう感じがうすらぐかもしれないが、どうもいたし方がない。」
 朝倉先生は、そう言って笑った。みんなも笑った。笑わなかったのは、荒田老と鈴田の二人だけだった。
 次郎が勢いよく立ちあがっていった。
「では、約一時間たったら、また板木《ばんぎ》を鳴らしますから、ここに集まって下さい。それまでは自由に探検を願います。」
 塾生たちは、面くらったような、しかしいかにも愉快そうな顔をして、いくぶんはしゃぎながら、どやどやと室を出て行った。
 塾生たちがまだ出おわらないうちに、朝倉先生が荒田老に近づいて行って、言った。
「長い時間おききいただいて、あうがとうごさいました。しばらくあちらでお休みくださいませんか。」
「いや、もうたくさん。」
 荒市老はぶっきらぼうに答えた。そして、
「鈴田、もう用はすんだ。帰ろう。」
 と腕組みをしたまま、すっくと立ちあがった。黒眼鏡は真正面を向いたままである。
 鈴田はすぐ荒田老の手をひいて歩き出したが、その眼は軽蔑《けいべつ》するように朝倉先生の顔を見ていた。
「もうお帰りですか。どうも失礼いたしました。」
 と、朝倉先生は、べつに引きとめもせす、二人を見おくって出た。朝倉夫人と次郎とは、眼を見あいながら、そのあとにつづいた。
 荒田老は、それから、玄関口まで一言も口をきかなかったが、自動車に乗るまえに、だしぬけにうしろをふりかえって言った。
「塾長さん、あんたは毎日、新聞は見ておられるかな。」
「はあ、見ております。」
「時勢はどんどん変わっておりますぞ。」
「はあ。」
「自由主義では、日本はどうにもなりませんな。」
「はあ。」
「どうか、命令|一下《いっか》、いつでも死ねるような青年を育ててもらいたいものですな。」
「はあ。」
 自動車が出ると、朝倉先生は夫人と次郎とをかえりみ、黙《だま》って微笑した。
 次郎は、それ以来、荒田老の顔を見ていない。このまえの閉塾式には、案内を出したにもかかわらず、顔を見せなかったのである。田沼理事長に対して、老がその後どんなことをいい、どんな態度に出ているか、それは朝倉先生にはきっとわかっているはずだが、先生は、次郎にはもとより、夫人に対しても、そのことについて何も語ろうとはしない。ただときどき、何かにつけて、
「われわれの仕事も、これからがいよいよむずかしくなって来る。しかし、そうだからこそ、こうした性
前へ 次へ
全218ページ中32ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
下村 湖人 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング