だ。だから、悲壮感は決して恥《はじ》ではない。むしろ悲壮感のない生活が恥なんだ。」
「すると、平常心というのは、どういうことになるんです。」
 次郎がなじるようにたずねた。
「悲壮感をのりこえた心の状態だろう。」
「のりこえたら、悲壮感はなくなるんじゃないですか。」
「そうかね。」
 と、先生は微笑《びしょう》して、
「金持ちが金をのりこえる。必ずしも貧乏《びんぼう》になることではないだろう。」
「ほんとうにのりこえたら、貧乏になるのがあたりまえじゃないですか。」
「じゃあ、知識の場合はどうだ。学者が知識をのりこえる。それは無知になることかね。」
 次郎は小首をかしげた。朝倉先生は、箸をやすめ、夫人に注《つ》いでもらった茶を一口のんでから、
「水泳の達人《たつじん》は、自由に水の中を泳ぎまわる。水はその人にとって決して邪魔《じゃま》ではない。それどころか……」
「わかりました。」
 次郎はきっぱり答えた。しかし、それがいつもそうした場合に二人に見せる晴れやかな表情はどこにも見られなかった。かれはむしろ苦しそうだった。おこっているのではないかとさえ思われた。
「今日は、次郎さんはどうかなすっているんじゃない?」
 朝倉夫人が、不安な気持ちを笑顔《えがお》につつんでたずねた。次郎がむっつりしていると、今度は朝倉先生が、
「やはり悲壮感かな。それにしても、いつもとはちがいすぎるようだね。そろそろ塾生も集まるころだが、何か気になることがあるんだったら、その前にきいておこうじゃないか。」
 次郎はちょっと眼をふせた。が、すぐ思いきったように、
「荒田さんは、このごろどうしていられるんですか。」
 かれの心には、むろんこの場合にも道江《みちえ》のことがひっかかっていた。むしろそのほうが荒田老以上に彼《かれ》をなやましていたともいえるのだった。しかしそれは口に出していえることではなかったのである。
 朝倉先生は、ちょっと眼を光らせて次郎の顔を見つめたが、すぐ笑顔になり、
「なあんだ。荒田さんのことがそんなに気になっていたのか。なるほど、あれっきり、こちらには見えないようだね。しかし、大したこともないだろう。何かあったところで、うなどん[#「うなどん」に傍点]で壮行会《そうこうかい》をしてもらったんだから、だいじょうぶだよ。はっはっはっ。」
 朝倉先生は、いつになくわざとらしい高笑
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