塾長室のドアがしまると、ほとんど同時に田沼理事長が自動車を乗りつけた。次郎が出迎えて、小声で荒田老《あらたろう》のことを話すと、
「そうか。」
 とうなずいて、すぐ塾長室にはいって行ったが、次郎には、気のせいか、そのうなずきかたに何か重くるしいものが感じられた。
 そのあと、いつもの顔ぶれの来賓《らいひん》がつぎつぎに見え、せまい塾長室はいっぱいになった。しかし、廊下にもれる話し声は、これまでの開塾式の日のようににぎやかではなかった。まるで話し声のきこえない時間がむしろ多いぐらいだった。次郎はいやにそれが気がかりだった。河瀬《かわせ》という少年の給仕がいて、茶菓《さか》をはこんだりするために、たびたび塾長室に出はいりしていたので、かれに中の様子をきいてみようかとも思ったが、それも何だか変だという気がして、ただひとりで気をもんでいた。
 定刻になって塾生を式場に入れ終わると、かれは来賓を案内するためにすぐ塾長室にはいって行ったが、その時にも、話し声はほとんどきこえなかった。見ると荒田老は両腕《りょううで》を深く組み、その上にあごをうずめて、居眠《いねむ》りでもしているかのような格好《かっこう》をしていた。ほかの人たちの中にも、頭を椅子《いす》の背にもたせて眼をつぶっているものが二三人あった。あとはみんなめいめいに塾生名簿に眼をとおしていたが、それも気まずさをそれでまぎらしているといったふうであった。
 やがて式場に案内されて着席してからの荒田老の姿は、まさに一個の怪奇《かいき》な木像であった。式の順序は一般《いっぱん》の教育施設とたいして変わったこともなく、何度か起立したり着席したりしなければならなかったが、老は着席となると、必す両手をきちんと膝《ひざ》の上におき、首をまっすぐにたて、黒眼鏡の奥《おく》からある一点を凝視《ぎょうし》しているといった姿勢になった。そして壇上《だんじょう》の声は、理事長、塾長、来賓と三たび変わり、たっぷり一時間を要したにもかかわらず、老は身じろぎ一つせず、黒眼鏡から反射する光に微動《びどう》さえも見られなかったぐらいであった。
 式がすむと、来賓も塾生といっしょに昼食をともにする段取りになっていた。しかし荒田老は式場を出るとそのまま塾長室にもはいらず、すぐ帰るといいだした。理事長が食事のことを言って引きとめようとすると、
「めし? 
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