わしはめしはたくさんです。」
 と、そっけなく答え、付《つ》き添《そ》いの背広の男をうながし、さっさと自動車に乗ってしまった。
 朝倉夫人は第一回以来のしきたりで、その日は入塾生のこまごました世話をやいたり、炊事《すいじ》のほうの手助けをしたりしていたため、開式になって、はじめて荒田老の怪奇な姿に接し、非常におどろいたらしかった。そして、午後になって、理事長以下来賓が全部引きあげたあと、次郎に今朝のいきさつを話してきかされ、なお塾長室で、朝倉先生と三人集まっての話のときに、先生から老の人物や、その社会的勢力などについてあらましの話をきくと、夫人はさすがに心配そうに眉根《まゆね》をよせて言った。
「塾の中だけのむずかしさなら、かえって張《は》りあいがあって楽しみですけれど、外からいろいろ干渉《かんしょう》されたりするのは、いやですわね。」
 しかし、朝倉先生はそれに対して無雑作《むぞうさ》にこたえた。
「外からの圧力の加わらない共同生活なんか、あり得ないさ。あっても無意味だろう。そういう点からいって、実はこれまでのここの生活は少し甘《あま》すぎたんだ。これからがほんものだよ。」
 その後は、開塾式にも閉塾式にもきまって荒田老の姿が見えた。こちらからそのたびごとに案内を出すことになったのである。式場における理事長と塾長とのあいさつは、時によって多少表現こそちがえ、趣旨《しゅし》は第一回以来少しも変わっていないので、荒田老も何回となく同じ内容のことをきくわけであった。そして式がすむとすぐ帰ってしまうのだから、何がおもしろくて毎回わざわざ顔を見せるのか、次郎にはわけがわからなかった。世間には来賓祝辞を所望《しょもう》される機会が来るのを一つの楽しみにして、学校の卒業式などに臨《のぞ》む人も少なくはないが、それにしては人がらが少し変わりすぎている。少なくとも、それほど低俗《ていぞく》で凡庸《ぼんよう》な人物だとは思えない。内々心配されているように、指導方針について何か文句をつけたがっているとすれば、すでに最初からがその機会だったはずである。にもかかわらず、いつも黙々《もくもく》として式場にのぞみ、黙々として理事長と塾長とのあいさつをきき、そして黙々として帰って行く。次郎には、それが不思議でならないのだった。怪奇な容貌《ようぼう》がいよいよ怪奇に見え、気味わるくさえ感じられて来
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