いう人だと思いこんでいるかのような口ぶりだった。
「はあ、では……」
 と、背広の男は、いくらかあわてたらしく、さっきとはまるでちがった、せかせかした足どりで自動車のほうにもどって行った。そして、
「田沼さんはまだお見えになっていないそうですが、さしつかえないそうです。」
 と、まえと同じように、片手を自動車の中にさしのべた。
「どうれ。」
 うなるようにいって、背広の人に手をひかれながら、自動車からあらわれたのは、縫《ぬ》い紋《もん》の羽織《はおり》にセルの袴《はかま》といういでたちの、でっぷり肥《ふと》った、背丈《せたけ》も人並《ひとなみ》以上の老人だった。黒眼鏡をかけているので、眼の様子はわからなかったが、顔じゅうが、散弾《さんだん》でもぶちこまれたあとのようにでこぼこしていて、いかにもすごい感じのする容貌《ようぼう》だった。
 二人が近づくのを待って、朝倉先生があらためて言った。
「あなたが荒田さんでいらっしゃいますか。私は塾長の朝倉です。今日はよくおいでくださいました。さあ、どうぞこちらへ。」
「塾長さんですか。荒田です。」
 と、老人はかるく首をさげたが、顔の向きは少し横にそれていた。それから、背広の人にスリッパをはかせてもらって玄関をあがり、そろそろと塾長室のほうに手をひかれて歩きながら、
「田沼さんが青年塾をはじめられたといううわさだけは、もうとうからきいていました。わしも青年指導には興味があるんで、一度見学したいと思っていたところへ、つい昨日、ある人から今日の開塾式のことをきいたものじゃから、さっそくおしかけてまいったわけです。ご迷惑《めいわく》ではありませんかな。」
「いいえ、決して。……迷惑どころではありません。……理事長も喜ばれるでしょう。……実は、ごくささやかな、いわば試験的な施設《しせつ》だものですから、各方面のかたに大げさな御案内を出すのもどうかと思いまして、いつも内輪《うちわ》の者だけが顔を出すことにいたしているようなわけなんです。」
 朝倉先生は、べつにいいわけをするような様子もなく、淡々《たんたん》としてこたえた。すると、荒田老人は、ぶっきらぼうに、
「これからは、わしもその内輪の一人に、加えてもらいたいものですな。」
 朝倉先生も、それにはさすがに面くらったらしく、
「はあ――」
 と、あいまいにこたえて、塾長室のドアをひらいた
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