賓がまだ一名も見えていない、定刻より三十分以上もまえに、一台の見なれない大型の自家用車が玄関に乗りつけた。そして、その中から、最初にあらわれたのは、眼の鋭《するど》い、四十がらみの背広服《せびろふく》の男だったが、その男は、車のドアを片手で開いたまま、もう一方の手を中のほうにさしのべて言った。
「着《つ》きました。どうぞ。」
 すると、中のほうから、どなりつけるような、さびた声がきこえた。
「ゆるしを得たのか。」
「は。……いいえ。」
「ばかッ。」
 次郎はおどろいた。そして、思わず首をのばし、背広の男の横から車の内部をのぞこうとした。しかし、かれがのぞくまえに、背広の男はもうこちらに向きをかえていた。そして、てれくさいのをごまかすためなのか、それとも、それがいつものくせなのか、変に肩《かた》をそびやかして、玄関先のたたきをこちらに歩いて来た。
 かれは、帽子《ぼうし》をとっただけで、べつに頭もさげず、ジャンパー姿の次郎をじろじろ見ながら、いかにも横柄《おうへい》な口調《くちょう》でたずねた。
「今日は新しく塾生がはいる日ですね。」
「そうです。」
「式は何時からです。」
「もうあと三十分ほどではじまることになっています。」
「荒田さんがそれを見学したいといって、今日はわざわざお出でになっていますが、そう取次いでくだい。」
「荒田さんとおっしゃいますと?」
「荒田直人さんです。田沼《たぬま》理事長にそうおつたえすればわかります。」
「田沼先生はまだお見えになっておりませんが……」
「まだ?」
「ええ、しかし、もうすぐお見えだと思います。」
「塾長は?」
「おられます。」
「じゃあ、塾長でもいいから、そう取り次いでくれたまえ。」
 次郎は、相手の言葉つきが次第《しだい》にあらっぽくなるのに気がついた。しかし、もうそんなことに、むかっ腹《ぱら》をたてるようなかれではなかった。かれは物やわらかに、
「じゃあ、ちょっとお待ちください。」
 と言って、玄関のつきあたりの塾長室に行った。そして、すぐ朝倉先生といっしょに引きかえして来て、二人分のスリッパをそろえた。
 朝倉先生は、いつもの澄《す》んだ眼に微笑《びしょう》をうかべながら、背広服の男に言った。
「私、塾長の朝倉です。はじめてお目にかかりますが、よくおいでくださいました。さあどうぞ。」
 それはいかにも背広の男を荒田と
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