て来た。いつもなら、ごく気軽に、いまのことを朝倉先生に報告するところだったが、――そして今日の場合、とくべつその必要が感じられていたはずなのだったが――なぜか、かれは、いつまでも机の上にほおづえをついたまま、動こうとしなかった。
 それでも、七時になると、かれは元気よく立ちあがって、廊下《ろうか》の板木《ばんぎ》を打ち、そのまま広間にはいって行った。夜の懇談会がはじまる時刻だったのである。
 みんなが集まると、朝倉先生のつぎの言葉で懇談会がはじまった。
「では、これから、いよいよおたがいの共同生活の具体的な設計にとりかかりたいと思う。それには、まず、各室で話しあった結果をいちおう報告してもらって、それを手がかりに相談をすすめることにしたい。どの室からでもいいから、遠慮《えんりょ》なく発表してくれたまえ。」
 塾生たちは、しかし、そう言われても、おたがいに顔を見合わせるだけで、だれも口をきこうとするものがなかった。次郎は、第一室のしゃがれ声の発言を、今か今かと待っていたが、それもすぐには出そうになかった。
 かなりながい沈黙がつづいた。
 朝倉先生は、しかし、そんなことは毎回慣らされていることなので、ちっとも困ったような顔を見せなかった。みずから考え、みずから動く訓練よりも、指導者の意志どおりに動く調練をうけることによって、よりよき人間になると信じこまされて来た青年たちにたいして、塾堂の主脳者たる自分から、そんなふうに相談をもちかけることが、いかに場ちがいな感じを彼等《かれら》にあたえるかは、先生自身が、一ばんよく知っていたのである。
 先生は、しんぼうづよく待った。待てば待つほど沈黙が探まった。しかし、こうした沈黙というものは、ある程度以上に深まるものではない。またそうながくつづくものでもない。というのは、だれも自分の考えを深めるために沈黙しているのではなく、ただ沈黙のやぶれるのをおたがいに待っているにすぎないような沈黙でしか、それはないのだから。――このことについても、先生は決して無知ではなかったのである。
 事実、三分とはたたないうちに、沈黙に倦怠《けんたい》を感じたらしい視線が塾生たちの間にとりかわされはじめた。すると、その視線にはげまされたように、ひとりの塾生が口をきった。
「ぼくは第五室ですが、さっき板木が鳴るまで真剣に話しあってみました。しかし、話がばら
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