それだけに、かれは、朝倉先生が、なぜそのことをいって荒田老を説き伏《ふ》せようとしないのだろうと、それが不思議にも、もどかしくも思えてならないのだった。
塾生たちは、もうそのころには、とうに食事を終わっていた。来賓もほとんど全部|箸《はし》をおろしており、まだすんでいないのは、目が不自由なうえに、何かと議論を吹《ふ》きかけていた荒田老と、その相手になっていた朝倉先生ぐらいなものであった。しかし、この二人も、話をやめると間もなく箸をおろした。
来賓たちは、畳敷《たたみじ》きの広間のガラス窓いっぱいに、あたたかい陽《ひ》がさしこんでいるのが気に入ったらしく、食事がすんで塾生たちが退散したあとでも、窓ぎわに集まって、たばこを吸い、雑談をまじえた。そのうちに荒田老に付《つ》き添《そ》っていた鈴田が、平木中佐と何かしめしあわせたあと、朝倉先生の近くによって来てたずねた。
「今日も、午後は例のとおり懇談会をおやりになるんですか。」
「ええ、その予定です。しかし今日は、懇談らしい懇談にはいるのはおそらく夜になるでしょう。私から前もっていっておきたいことは、今日はもう大体、式場で話してしまいましたし、午後集まったら、さっそく、ご存じの『探検』にとりかからしたいと思っています。」
鈴田はすぐもとの位置にもどった。そして荒田老と平木中佐を相手に、何か小声で話しながら、おりおり横目で朝倉先生のほうを見たり、にやにや笑ったりしていたが、まもなく、荒田老の手をとって立ちあがった。すると平木中佐も立ちあがった。
三人の自動車が玄関をはなれると、ほかの来賓たちの話し声は、急に解放されたようににぎやかになった。しかし、話の内容は決して愉快《ゆかい》なものではなかった。塾の将来に対する憂慮《ゆうりょ》や、理事長と塾長に対する同情と激励《げきれい》の言葉が、ほとんどそのすべてであった。そして、具体的対策については、何一つ示唆《しさ》が与えられないまま、それから二十分ばかりの間に、来賓たちの姿もつぎつぎに消えて行った。
田沼理事長だけは、今日はめずらしくゆっくりしていた。そして、来賓たちを送り出すと、すぐ、朝倉先生と二人で塾長室にはいって行った。
次郎は、一人になると、急にほっとしたような、それでいて何か固いものを胸の中におしこまれたような、変な気持ちになり、もう一度広間にはいって、窓により
前へ
次へ
全218ページ中60ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
下村 湖人 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング