「お芳。大巻お芳だよ。……でも、正木のうちの人になったっていうから、正木お芳かなあ。」
「今度は本田お芳になるんか。……次郎ちゃんは変な気がしない。」
「ふふふ。」
 次郎は笑った。彼は、しかし、はじめてお芳にあった時のことを思い出して、恭一が今どんな気持でいるかがわかるような気がした。
 恭一の眼はいやに冴《さ》えていた。彼は、襖の向こうの梯子段が、かすかにきしむように思ったので、ちょっと耳をすましたが、それっきり、またしいん[#「しいん」に傍点]となった。
「次郎ちゃんは、亡くなった母さんの名を知ってる?」
「知ってるとも、お民っていうんだろう。」
 二人は真暗な中で、ぽつりとそう言って、また默りこんでしまった。
 恭一は、梯子段がまたきしむように思った。彼は枕からちょっと頭をもたげて、その方に注意したが、べつに人の気配はしなかった。
「ねむたくないね。」
 と、次郎が言った。
「うむ、まだ九時半ぐらいだろう。だけど、もうねむった方がいいよ。」
「僕、十時に眠ればいいや。もっと話そうよ。」
「うむ――」
 と恭一は生返事《なまへんじ》をしたが、すぐ、
「その人、いつごろうちに来
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