ね。」
と、先生は次郎の頭をもう一度ゆさぶった。次郎は顔をあげて、ちらと先生の眼を見たが、やはり返事をしなかった。
「世の中にはね――」
と、先生は次郎の頭から手をはずして、ゆっくり言葉をついだ。
「沢山の幸福にめぐまれながら、たった一つの不幸のために、自分を非常に不幸な人間だと思っている人もあるし、……それかと思うと、不幸だらけの人間でありながら、自分で何かの幸福を見つけ出して、勇ましく戦って行く人もある。……わかるかね。……よく考えてみるんだ。」
次郎には、先生の言い方が少しむずかしかった。しかし、まるでわからないというほどでもなかった。で、何度もその言葉を心のうちでくりかえしているうちに、先生が何のためにそんなことを言ったのかが、次第にはっきりして来た。彼は、乳母、父、正木一家、春子、恭一、そして最近の大巻一家と、つぎからつぎに、自分と交渉の深かった人たちのことを思いうかべてみた。そして、現在自分の不幸の原因になっている人は、けっきょく本田のお祖母さんだけだと気がついた時に、彼は、自分というものが急にまるでちがった世界におかれたような気がして、何か驚きに似たものを感じずには
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