て、
「母さん、母さんって。――」
次郎は、はっとしてお芳を見た。お芳のえくぼは、まだ消えていなかった。しかし、次郎の眼には、そのえくぼが妙にゆがんでいるように見えた。
次郎は、いそいでふとんを頭からかぶってしまった。するとお芳が枕元によって来て、
「次郎ちゃんは、きっと亡くなったお母さんを呼んでいたのね。でも、あたしもうれしかったわ。」
次郎はふとんの中で、思わず身をちぢめた。そして、心のうちで、
「うそつけ!」
と叫んでみた。しかしそれはまるで力のない叫びだった。彼は生まれてこのかた感じたことのない妙な感じに包まれていた。それは嬉しいような、それでいて腹が立つような感じだった。
(どうして母さんと呼ばなければならないのだろう。もし叔母さんと呼んでもいいのなら、どんなにでも気安く話が出来るのに。)
彼はそんな気がしていた。そして、いつまでもふとんから顔を出そうとしなかった。
五 外科手術
「実は、ぶちまけたところ、そんなような事情なんです。……むろん、正木の方から、一応申上げたはすだと存じますが、私からじかに申上げてみたら、また、いくぶんお感じの上でちがう点もあ
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