、あの悲しい言葉は、忘れようとしても忘れられない言葉だった。
(次郎だけは――次郎だけは――)
と、彼は何度も心の中で母の言葉をくりかえした。そして、ひきつけられるように墓に近づいて行った。
墓はまだ土饅頭《どまんじゅう》のままだったが、ところどころに、しめった落葉がぴったりとくっついていた。彼は手で一枚一枚それをはがして行くうちに、急に悲しさがこみあげて来た。
彼はしゃがんで掌《て》を合わせ、額《ひたい》をその上にのせて眼をつぶった。そして、このごろ忘れがちになっていた母の顔を、一心に思い浮かべようとした。
しかし、彼の眼にすぐ浮かんで来たものは、母の顔ではなくて、「お芳さん」の顔だった。えくぼがはっきり見える。彼はそれを払いのけるように頭をふった。そして、小声で、
「母さん――母さん――」
と呼んでみた。しかし母の顔はどうしてもはっきり浮かんで来ない。浮かんで来たと思った母の顔は、いつも「お芳さん」の幅の広い顔にかくれてぼやけていた。
彼は、もう、悲しいというよりは、何か恐ろしいような気になって来た。そして、手の甲でやけに眼をこすりながら立ち上ったが、一瞬、土饅頭に視線
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