たことも、それっきりになってしまった。
 次郎は何だか拍子ぬけの気味だった。
 しかし、権田原先生が宿直室で言った言葉――というよりは、その言葉ににじんでいた先生の気持――は、その後、徹太郎の松の木についての話と共に、何かにつけ彼の心に甦《よみがえ》って来た。そして、彼がいよいよ中学校にはいるまでの間、いくぶんかでも彼の心を正しい方向に鞭うっていたものがあったとすれば、それは、彼が、この二人の言葉と、運平老の蘭の絵とからうけた感銘であったにちがいない。

    一三 がま口

 ともかくも、こうして、一年近くの月日が流れた。
 次郎にとって、それは、むろん、愉快な一年であったとはいえなかった。だが、いつも心を外に向け、喜びも、怒りも、悲しみも、すべて周囲の人々の愛情によって左右されて来た彼が、善かれ悪しかれ、自分というものに眼を向け出したことは、たしかに一つの進歩であったにちがいない。そして、もし「考える生活」というものが、人間を人間らしくする最も大事な条件の一つであるならば、彼は、一生のうち比較的早い時期に、しかも、なまなましい彼自身の生活に即してそれをはじめていたという点で、むし
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