、しかし、父の顔つきだけは、いつとはなしに、はっきり覚えこんでいた。そして、その顔は、たしかに家じゅうの誰のよりも親しみやすい顔だった。むろん、お浜の亭主の勘作などにくらべると、ずっとやさしそうに思えたのである。
 で、次郎は、今日母から、
「夕方にはお父さんが帰っていらっしゃるんだよ。次郎がここに帰って来てから初めてだね。」
 と言われた時には、一刻も早く逢ってみたいような気になった。
 そして、いよいよ夕方になって、父を迎えるために、みんなが庭に打水を始めた時には、次郎は珍しく恭一のあとについて、柄杓《ひしゃく》で庭石に水をまいて歩いたりしたのだった。
 それでも、彼は、いざ父が帰ったと聞くと、妙に気おくれがして、みんなと一緒に玄関にとび出して行こうとはしなかった。それどころか、彼はその騒ぎの間に、一人でこっそり、庭の植込に這入りこんでしまったのである。そして、父が服を脱いだり、湯殿に入ったり、母がお膳の支度をして、それを座敷の縁側に運んだり、恭一と俊三とがはしゃぎ廻ったりしている様子を、じっとそこから覗いていた。
 しかし覗いているうちに、彼はだんだんつまらなくなって来た。もとも
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