る気配はない。
「僕、先に行ってみるよ。」
 次郎は、変に皮肉な気持になって、提灯を母の手からとると、小走りに走り出した。
「次郎っ。」
 お民の声は、少しふるえていた。次郎は二三間先に立って、提灯を上げたり下げたりした。その拍子に、ふっと灯が消えて、闇がのしかかるように二人を圧さえた。
「まあ、次郎。」
 お民の声は、すっかりおびえ切っている。
 次郎は、闇をすかしながら、道の端っこにしゃがんだ。
「次郎、次郎や、どこにいるの。」
 次郎は息を殺した。そして、逃げ出すなら今だと思った。
 しかし、彼は立ち上らなかった。それは、お民が、その時、すぐそばに立っているからばかりではなかった。彼は、お浜のことを思い浮かべてみても、いつものように心が熱くならなかったのである。彼は真っ暗な中に、ぽつんと淋しくしゃがんでいた。
「次郎や、次郎ったら。」
 お民の声は、妙にすごかった。恐怖と怒りとがごっちゃになっているような声だった。次郎はそれでも身じろがなかった。そして、お民の口から漏れる烈しい息づかいに、じっと耳をすましていた。
 そのうちに二人の眼が、だんだんと闇になれて来た。お民は浮き腰で地
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