れ出して、耳の方にはっていった。次郎は、指先で、自分の好きな方向に、涙に道をつけてやるのが、また一つの楽しみであった。
 その楽しみの最中に、お民がやって来たのである。
 彼女は中には這入って来なかった。しかし、次郎は、声を聞いただけで、すぐそれが誰だか、そして何の用で来たかが、はっきりわかった。彼は小さい胸をどきつかせながら、眠ったふりをして耳をすました。
 話し声は、戸外の縁台から、団扇《うちわ》の音にまじって聞えて来る。
「そりゃ、私だって、今では一日も早くおかえししたい、とは思っていますが……」
 お浜の声である。
「やっぱり帰ろうとは言わないのかい。」
「ええ、ちょいと門を出るのでさえ、このごろでは、おずおずしていらっしゃるようで、そりゃおかわいそうなんですの。」
「でも、私から、じかに言って聞かしたら、納得《なっとく》しないわけはないと思うのだがね。」
「そうだと結構でございますが……」
「親身の親が言ってきかしても、駄目だとお言いなのかい。」
 と、少しとげのあるものの言いかたである。それが次郎にもよくわかる。
「そりゃ、仕方がございませんわ。」
 お浜の突っ張る声。次郎
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