なかったろうかと、それを後悔しているくらいであった。
 ことに、飯米欲しさに次郎を手放さない、などと言われることは、彼女の気性として、我慢の出来ないことであった。そんな時には、ついかっ[#「かっ」に傍点]となって、次郎を、使いに来た人の方に無理に押しやるような真似をすることさえあった。しかし、次郎に泣きつかれたり、逃げられたりすると、いつもそのままになってしまうのであった。
 ところが、ある晩だしぬけに、お民自身が迎えにやって来た。これはお浜も全く予期しなかったことであった。
 次郎は、その時、もう寝床に這入っていた。真夏のころで、寝床といっても、茣蓙《ござ》一枚だった。むれ臭い蚊帳のそとでは、蚊が物すごい唸《うな》りを立てていた。
 次郎のそばには校番の弥作《やさく》爺さんが寝ていた。――爺さんは、人を笑わせるような短い話をいくつも知っていたので、次郎は、この頃、お浜のそばよりも、爺さんのそばに寝るのが好きになっていたのである。
 爺さんは、ゆっくりゆっくり話をすすめながら、おりおり大きな欠伸《あくび》をした。すると、そのたんびに、しょぼしょぼした眼尻から、ねばっこい涙がたらたらと流
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