盾轤黷驕A是れ實に大師の衷情から出た主張である、又恐らく、入唐の上密教を傳へられた素懷であると信ずる、それから、七年を經て、弘仁七年十月十四日の日附で以て、嵯峨天皇の、御乖豫を祈誓せられて、神水一瓶に藥石を添へて進献した表啓がある、かくのごとく、寸進尺進、徐々として、密教の根柢を宮廷の中に扶植せられて居るが、又承和元年即ち大師の入寂以前に先つ僅に一年に至りて、宮中の一室を莊嚴して、眞言を持誦することを恒例となすと云ふ敕允が、出た、それまでは、大師の苦心は、御一生を通じて、眞に想見に餘あるものと云つてよい、大師の遺弟たるものは、今日を以て、昔日を推して、大師の御一生は、芝居で見るやうに、始から、六方を踏んで、花見から出てくるやうに見るは、是れ、眞に大師の性格を領解したものと云へぬ、大師の歸朝後の生涯は、法の爲め、國の爲め、身命を惜まなかつた歴史で、况んや、朝に立つて、從來の入唐求法の高僧の如く、寵榮を趁うて、奔走するなどの事は、なかつたのである、奈良の連中が、最澄と喧譁をしたり、動もすれば、情誼上、大師も孰れへか卷き込まれさうであつたが、大師が、中立の状態に居られたは、畢竟、世榮に冷淡な
前へ 次へ
全95ページ中86ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
榊 亮三郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング