A然るに二回とも、毘盧遮那佛の本體に花を中てたので、二ヶ月以内に傳法阿闍梨の位に上るべき、灌頂を受けられたのであるが、俊英の士が明師に遇ふた程、世の中に幸福なものはないと思ふ、しかし、これによりて、大師の身には、大唐天子の歸依する密教を、扶桑の東に傳へねばならぬと云ふ責任が、懸つたのである、身は、物外の一沙門であるも、法は、當時東方亞細亞に流布して、大唐天子すら歸依せられて居る法である、從つてこれを日本に傳ふるにしても、匹夫匹婦にのみ傳ふべきでない、閭巷の小人、隴畝の野人にのみ傳へて、甘んずべきではない、かくのごとくんば、惠果和尚の寄託に辜負する次第であり、又遠くは、金剛智三藏や、不空三藏の法統たるに耻づる次第である、苟も責任を解し、師恩の渥きに感謝することの出來る人は、必ず、傳燈阿闍梨の位に上られた大師の双肩には當時、萬鈞の重石が懸かつた感をせぬものはあるまいと私は思ふ、私かに大師當時の御心事を想見するに、是非とも、此の法を日本に傳へて、上は、日本の、天皇陛下から、下は、萬民に及ぶまで、此の法の歸依者となして、日本の國家の鎭護としたいものであると思はれたに相違ない、又惠果自身が、大師
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