ナも、密教の修行者と、云ふ意味になるから、或は眞言宗の方々には、曲解であると思はるゝことであらうが、私は、大師の時代から推して、寧ろ、最後の意味に解釋したいのである大師が惠果の會下につきて、始めて灌頂壇に上つたのは長安に入つてから、僅に六ヶ月後である、して見ると、六ヶ月間に、會話などは、すこしも差支なかつたと見える、今日の日本に於ける英語獨逸語の學者は、日本で充分の素養のある人でも、其の國に留學六ヶ月間にして、會話に差支へなくなるには、非常の努力を要する、中には、一年もかゝつて、まだ滿足に出來ぬ人が多い、大師當時の日本の大學では、支那語の教授法は甚だ有効であつたやうに思はれる。
大師が、惠果の學法灌頂壇に上り、大悲胎藏大曼荼羅に臨んで、花を抛ち、偶然、眞中にある毘盧遮那如來の身上に中てられた、これは、不空三藏が、金剛智三藏に就きて、弟子となつたときも、金剛界大曼荼羅に對し此の抛花の法を行つて居りますが、これによりて、師の金剛智が、不空の人物を試驗し得て、他日大に教法を興すべき人であることを知りましたことは、宋高僧傳に見えて居ります、惠果も、大師に對して、同一の試驗を二回せられたのである
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