椛メ久矣と云つて笑を含んで喜ばれたと、大師が、請來目録の序に書かれてあるが、惠果の云はれた意味は種々に解釋出來る、例へば、大師が徳宗皇帝の貞元二十年の臘月に長安城に入られて、惠果に見えられたは、翌年の春であるから、惠果が、大師の入城のことを、前から傳聞して知つて居つたと云はれたつもりか、それとも、大師が日本に居つた時から、入唐の志があつて、其の志は交通不便の時代とは云へ兩國の高僧名僧が、互に其の名聲を傳聞し得た時代であるから、或は、惠果が大師の入唐すべきを豫め知つて居つて、心待ちに居られたとも解釋出來るが、又何事も支那の弟子分の國の一である日本からは、從來、法相宗を學びに來た、律宗をとりに來た、三論も、華嚴も、持つて往つたに、三論や華嚴の極致とも云ふべき、密教が、現に大唐天子の歸依する所となり、支那に隆盛を極めて居るに、日本からは、一向これを學びに來ないとは、如何した譯であらうと、不審を抱かれて、誰か來さうなものと思つて、心待ちに待つて居られたときに、大師が、來られたから、我先知汝來、相待久矣と云はれたとも解釋が出來る、此の解釋によると惠果の所謂汝とは必ずしも、大師自身に限らない、何人
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