「たもので、瑜伽の哲學の目的は、能觀と所境相分と見分との區分を沒却するに外ないのである、しかし、密教の理論的方面には、必ずしも、瑜伽の哲學のあるばかりでなく、もと/\、密教は、前にも云つたごとく印度思想の一大潮流が、或る時代に於て密教となつて現はれたものであるから、種々の哲學が其の中にある、聲字實相論などは、毘陀の常住不滅を唱導する彌曼差《ミーマーンサ》哲學と、其の歸趣を一にするものと吾輩は信ずる、又、即事而眞の説と、吠檀多哲學の最後の安心である、余は梵天なりと云ふ論と、如何なる差違があるか又密教の中には數論的分子もある、この分子の多く入つた密教は、今日もなほ、印度に殘つて居る、自性と神我との關係を、男女の關係に見て、象徴的の解釋をすれば、ともかく、文字通り解釋すると、淫猥極まる宗教となりて居る、所謂|怛土羅《タントラ》派の左行派《※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ーマ、チヤーリン》である、これに反するものは右行派《ダクシナーチヤーリン》である、其の他|布字《ニヤーサ》の法にしても、種字《ビーヂヤ》にしても、曼拏羅《マンダラ》にしても、陀羅尼《ダラニー》にしても、今日日本に存在して
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