繽@に至るまで、三代に歴仕して、禁闥に出入し、位は儀同三司即ち今の大臣待遇に至り天子を呼ぶに、其の名を以てして、天子咎めず、入寂のとき、天子これが爲めに廢朝三日に至つた程まで、朝野に重きをなして居つた高僧は、即ち不空三藏其の人で、大師の師惠果は、即ち其の弟子であつたのである。
惠果も、大唐天子の灌頂の國師であり、三代に歴仕して、徳惟時尊、道則帝師であつたとすると密教は、善無畏三藏や金剛智三藏の來朝以來一行禪師だの、不空三藏だの云ふ樣な連中の努力により、事實上已に、大唐天子の最も心を傾けて歸依せられた宗教となつたのである、密教を組織的に唐に傳へたは、善無畏三藏であるが、かくまで密教の勢力を唐の宮廷に扶植するに至つた始めは、金剛智三藏を推ねばならぬ、玄宗皇帝が、最初の程は道教に歸依して居られたので、三藏の教化が、これを密教に歸依せしめたのである、宋高僧傳の金剛智三藏の傳の下に、干時帝留心玄牝、未重空門とあるを見ても、明白である、玄牝とは、老子の所謂谷神死せず、これを玄牝と云ふに基いたものである、しかし、密教の流行は、當時東方亞細亞一般の氣運であつて、必ずしも支那ばかりでない、印度には、中部
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