スときは、一章であつたが、唐代に至りて、種々の宗教が入つた爲め、老子尹子を、此等の宗教の祖師とする必要から、種々添補して、幾多の章になつたが、此の書物は、日本にも、唐代から傳はつたと見え、藤原佐世の日本見在書目の中にも、出て居る、私共の友人で、桑原博士が、先般「藝文」の中に此の書のことを詳細に論じて居るから、篤志のかたは、是非一讀を願ひたい、かゝる書物が、唐代で流行したのは、全く、道教が盛になつたからで、有名な玄奘三藏が印度から歸つたとき、太宗の勅命で、印度から唐の朝廷へ來る國書の翻譯やら、又唐から印度へやる國書の起草など一に玄奘三藏の手を煩はしたものであるが、東印度の童子王、即ち迦摩縷波國の「クマーラ」王の請により太宗の思召で、老子の道徳經五千言を梵文に譯して、西域の諸國に贈れとの事で、玄奘は、道士等と共に其の翻譯に從事した位である、不幸にして、道士等が、老子の所謂「道」を菩提と譯せんと主張し、玄奘が末伽(〔Ma_rga〕)と譯しやうとし、とかくに玄奘と議論が合はない、ともかくも翻譯して、將に封勒せんとしたが、又議論が出來て、結局西域の方へ送つたのか、送らなかつたか、西明寺の道宣が作
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