は Yak らしく皆梵語の Sas[#sは下ドット付き], 〔Pan~ca〕, Catur, Tri, Dva, Cka 又は Sa と語源を同じくして、六五四三二一の義を有することは疑ない、又以て、波斯の文物が如何に當時の支那に影響したかが明白である。
唐代の支那人は、氣宇濶達で、自國のみは、宇内の中心で、自余の國は藩屏であり、自國の皇帝は、百王の主として、天に代り、宇内を統治して居るものと思うて居つたらしい、だから、自國の文化を慕うて來た外人は、善く待遇したものであつて、我が國では、安部仲麿などは大にもてた一人である、官仕して秘書監となつた許りでなく、李白だの其の他の連中と徴逐して、交をした、其の他の留學した連中も、公私共に世話になつたことは、掩ふべからざる事實である、唐代の支那ではないが、少し以前、隋の煬帝の時代に、日本から遣唐大使をやつて、日出の天子が、日沒の天子に問ふが、日沒の天子は恙ないかと云ふ主意の國書を送つたところ、煬帝は、東夷何ぞ、無禮なると怒つた話がある、日本の方から云へば、怒つたは奇怪千萬と云はなければならぬが、支那の方から云へば、煬帝の怒つたにも、聊か理由がある
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