3水準1−89−89]者、流之諸道、死者大半と、佛祖統記に出で居る、其の教徒の熱心に教を奉じ、壯烈に教に殉じたことは、これでも明白である、京師にある女末尼七十人は、皆死んだとある、徳川時代の初期に、基督教迫害のあつた當時、九州邊の日本人で、教に殉じたものも、中々あつたが、これで見ると、宗教には、國境、種族の別はないもので、善い宗教であり、善い人がこれを護持して流布さすと、如何なる國に於ても、如何なる種族のものゝ中でも、信者を得ることは出來る、政治家などで、善良な宗教の力を、政治の力で左右しやうとするは、蟷螂の龍車に向ふごときものだ、これで見るも、大師の在唐當時の長安には、末尼教なく、三十七年の後にかく熱烈なる末尼教が、長安に出來たとは思はれない、必ずや、其の以前から、長安に根據をすえて、熱心に支那人に對し、布教したものと、私は斷言して、憚らない次第である。
大師は、在唐の時日は、僅に滿二年で、隨分多忙であつたと想像せらるゝが、長安の市中を逍遙せられたとき、又般若三藏の許に通はれたとき、此等胡※[#「示+夭」、第3水準1−89−21]の祠廟の前を通られたと想像するが、大師の目には、何と映
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