なども、夙に此の地方に流布したと見え、漢魏の時代には、此の地方から、支那へ來た高祖が少くない、康僧鎧だの、康孟詳だの、康巨だの、康僧會だのと、康の字を冠した連中は、此の地方の出身で、大法を支那に傳へん爲め、流沙葱嶺の險を凌ぎて、支那に來たのである、此等の高僧の譯した、經を見ると、中には必ずしも、梵語から譯したものとのみ見るべからざるものがある、よく/\、[#「、」は底本では「。」]調べたら、或は、其の國語から重譯したものと思わるゝものもあるであらう、景淨は、其の本名「アダム」と云つたことが明白であつて見ると、波斯又は其の傍近の國の出身たることは、明白であるが、其の所謂胡語と云つたは、「ソグド」の語であつたとすれば、當時大乘理趣六波羅蜜多經は、梵語から、「ソグド」に譯せられたか、又はこれに類する傍近の國語に譯せられたことが明白で、基督教の一派である景教の僧ではあつたが、景淨は、已にこれを知つて居つたのである、して見れば、當時密教流布の地域は、獨り印度のみでなく、西藏のみでなく、支那のみでなく、波斯語系の民族の間にも普及して居たことは、推察出來る次第である、若し般若三藏が、後に梵語から更ら
前へ
次へ
全95ページ中32ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
榊 亮三郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング